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「柳条湖事件」、満州事変の
発端となる鉄道爆破事件


  出典:Wikipedia 日本語版

 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年9月18日
 

柳条湖(9.18)事件:満州事変発端の記憶が残る
九一八事変を忘るることなかれ 中国各地で防空警報
過去に学び、未来へ 9.18事変 90周年を迎えて平和を心に刻み直そう
<詳細>「柳条湖事件」、満州事変の発端となる鉄道爆破事件
中国人が9.18事件を思う時、日本の与党自民党、総裁選で反中を競う

 柳条湖事件(中国語: 柳条湖事件)は満州事変の発端となる鉄道爆破事件[1]。


事件直後の柳条湖の爆破現場
Source: WikimediaCommons 関東軍関係者 - 太平洋戦争研究会編『満州帝国』河出書房新社、1996年、59頁より転載, パブリック・ドメイン, リンクによる

 1931年(昭和6年、民国20年)9月18日、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、関東軍が南満州鉄道(満鉄)の線路を爆破した事件である[2]。

 関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用した。

 事件名は発生地の「柳条湖」に由来するが、長いあいだ「柳条溝事件」(りゅうじょうこうじけん、英語: Liutiaogou Incident)とも称されてきた。

 なお、発生段階の事件名称としては「柳条湖(溝)事件」のほか「奉天事件」「9・18事件」があるが、その後の展開も含めた戦争全体の名称としては「満州事変」が広く用いられている[3]。

9.18事件の経緯


物証として提出された中国軍の帽子と小銃
Source: WikimediaCommons  パブリック・ドメイン, リンクによる

 1931年(昭和6年、民国20年)9月18日(金曜日)午後10時20分ころ、中華民国奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)の北方約7.5キロメートルにある柳条湖付近で、南満州鉄道(満鉄)の線路の一部が爆発により破壊された[2]。

 まもなく、関東軍より、この爆破事件は中国軍の犯行によるものであると発表された[2]。このため、
日本では一般的に、太平洋戦争終結に至るまで、爆破は張学良ら東北軍の犯行と信じられていた。しかし、実際には、関東軍の部隊によって実行された謀略事件であった[2]。

 事件の首謀者は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐である。二人はともに陸軍中央の研究団体である一夕会の会員であり、張作霖爆殺事件の計画立案者とされた河本大作大佐の後任として関東軍に赴任した[2]。

 爆破を直接実行したのは、奉天虎石台(こせきだい)駐留の独立守備第二大隊第三中隊(大隊長は島本正一中佐、中隊長は川島正大尉)付の河本末守中尉ら数名の日本軍人グループである[2]。

 現場には河本中尉が伝令2名をともなって赴き、斥候中の小杉喜一軍曹とともに、線路に火薬を装填した[5]。関東軍は自ら守備する線路を爆破し、中国軍による爆破被害を受けたと発表するという、自作自演(偽旗作戦)の計画的行動であった。この計画に参加したのは、幕僚のなかでは立案者の石原と板垣がおり、爆破工作を指揮したのは奉天特務機関補佐官の花谷正少佐と参謀本部付の張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉であった。

 爆破のための火薬を用意したのは今田大尉であり、今田と河本は密接に連携をとりあっていた[7]。このほか謀略計画に加わったのは、三谷清奉天憲兵分隊長と、河本中尉の上司にあたる第三中隊長の川島大尉など数名であったとされる[2]。

 ただ、第二次世界大戦後に発表された花谷の手記によれば、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第一部長建川美次少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも、この謀略を知っており、賛意を示していたという。

 当時、関東軍は兵力およそ1万であり、鉄道守備に任じた独立守備隊と2年交代で駐箚する内地の1師団(当時は第二師団、原駐屯地は宮城県仙台市)によって構成されていた。

 事件のおよそ1ヶ月前に当たる同年8月20日に赴任したばかりの本庄繁を総司令官とする関東軍総司令部は、遼東半島南端の旅順口区(当時、日本租借地)に置かれており、幕僚には参謀長として三宅光治少将、参謀として板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、新井匡夫少佐、武田寿少佐、中野良次大尉が配置されていた。

 独立守備隊の司令部は長春市南方の公主嶺(現吉林省公主嶺市)に所在し、司令官は森連中将、参謀は樋口敬七郎少佐であった[注釈 5]。第二師団の司令部は奉天南方の遼陽(現遼寧省遼陽市)に設営されており、第三旅団(長春)と第十五旅団(遼陽)が所属、前者に第四連隊(長春)・第二十九連隊(奉天)、後者に第十六連隊(遼陽)・第三十連隊(旅順)などが所属した[2][3]。


板垣征四郎
Source: WikimediaCommons パブリック・ドメイン, リンクによる

 この爆破事件のあと、南満州鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしているが、関東軍兵士によって立ち入りを断られている。また、爆破そのものは小規模なものであり、レールの片側のみ約80センチメートルの破損、枕木の破損も2箇所にとどまった[2][7]


 爆破直後に、奉天午後10時30分着の長春発大連行の急行列車が現場を何事もなく通過していることからも、この爆発がきわめて小規模だったことがわかる。今日では、爆発は線路の破壊よりもむしろ爆音を響かせることが目的であったと見る説も唱えられている[11]。

 川島中隊(第二大隊第三中隊)はこのとき、奉天の北約11キロメートルの文官屯南側地区で夜間演習中だったが、爆音を聴くや直ちに軍事演習を中止した[7]。中隊長の川島大尉は、分散していた部下を集結させ、北大営方向に南下し、奉天の特務機関で待機していた板垣征四郎高級参謀にその旨を報告した。

 参謀本部編集の戦史では、南に移動した中隊が中国軍からの射撃を受け、戦闘を開始したと叙述している[7]。板垣参謀は特務機関に陣取り、関東軍司令官代行として全体を指揮、事件を中国側からの軍事行動であるとして、独断により、川島中隊ふくむ第二大隊と奉天駐留の第二師団歩兵第二十九連隊(連隊長平田幸広)に出動命令を発して戦闘態勢に入らせ、さらに、北大営および奉天城への攻撃命令を下した[2][3][5]。

 北大営は、奉天市の北郊外にあり、約7,000名の兵員が駐屯する中国軍の兵舎である。また、市街地中心部の奉天城内には張学良東北辺防軍司令の執務官舎があった。ただし、事件のあったそのとき、張学良は麾下の精鋭11万5,000を率いて北平(現在の北京)に滞在していた[2][3]。


1931年9月18日から19日にかけて関東軍(独立守備隊)の攻撃をうけた北大営
Source: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンク

 本庄繁関東軍司令官と石原作戦参謀ら主立った幕僚は、数日前から長春、公主嶺、奉天、遼陽などの視察に出かけており、事件のあった9月18日の午後10時ころ、旅順に帰着した。

 しかし、このとき板垣高級参謀だけは、関東軍の陰謀を抑えるために陸軍中央から派遣された建川美次少将を出迎えるという理由で奉天にのこっていた[2]。午後11時46分、旅順の関東軍司令部に、中国軍によって満鉄本線が破壊されたため目下交戦中であるという奉天特務機関からの電報がとどけられた[13]。しかし、これは板垣がすでに攻撃命令を下したあとに発信したものであった[13]。


日本軍(第二師団)の奉天入城
Source: Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる

 報せをうけた本庄司令官は、当初、周辺中国兵の武装解除といった程度の処置を考えていた。しかし、石原ら幕僚たちが奉天など主要都市の中国軍を撃破すべきという強硬な意見を上申、それに押されるかたちで本格的な軍事行動を決意、19日午前1時半ころより石原の命令案によって関東軍各部隊に攻撃命令を発した[13]。

 また、それとともに、かねて立案していた作戦計画にもとづき、林銑十郎を司令官とする朝鮮軍にも来援を要請した[13]。本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だったはずだが、その規定は無視された[14]。攻撃占領対象は拡大し、奉天ばかりではなく、長春、安東、鳳凰城、営口など沿線各地におよんだ[13]。

 深夜の午前3時半ころ、本庄司令官や石原らは特別列車で旅順から奉天へ向かった。これは、事件勃発にともない関東軍司令部を奉天に移すためであった。列車は19日正午ころに奉天に到着し、司令部は奉天市街の東洋拓殖会社ビルに置かれることとなった[13]。


奉天城内を守る日本兵(同仁薬局前)
Source: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

 いっぽう、日本軍の攻撃を受けた北大営の中国軍は当初不意を突かれるかたちで多少の反撃をおこなったが、本格的に抵抗することなく撤退した[2]。

 これは、張学良が、かねてより日本軍の挑発には慎重に対処し、衝突を避けるよう在満の中国軍に指示していたからであった[2]。北大営での戦闘には、川島を中隊長とする第二中隊のみならず、第一、第三、第四中隊など独立守備隊第二大隊の主力が投入され、9月19日午前6時30分には完全に北大営を制圧した[7]。この戦闘による日本側の戦死者は2名、負傷者は22名であるのに対し、中国側の遺棄死体は約300体と記録されている[2]。

 奉天城攻撃に際しては、第二師団第二十九連隊が投入された[7]。ここでは、ひそかに日本から運び込まれて独立守備隊の兵舎に設置されていた24センチ榴弾砲(りゅうだんほう)2門も用いられたが、中国軍は反撃らしい反撃もおこなわず城外に退去した[2]。午前4時30分までのあいだに奉天城西側および北側が占領された[7]。奉天占領のための戦闘では、日本側の戦死者2名、負傷者25名に対し、中国側の遺棄死体は約500にのぼった[13]。また、この戦闘で中国側の飛行機60機、戦車12台を獲得している。

 安東・鳳凰城・営口などでは比較的抵抗が少ないまま日本軍の占領状態に入った[13]。しかし、長春付近の南嶺(長春南郊)・寛城子(長春北郊、現在の長春市寛城区)には約6,000の中国軍が駐屯しており、日本軍の攻撃に抵抗した。日本軍は、66名の戦死者と79名の負傷者を出してようやく中国軍を駆逐した[13]。こうして、関東軍は9月19日中に満鉄沿線に立地する満州南部の主要都市のほとんどを占領した[13]。

 9月19日午後6時、本庄繁関東軍司令官は、帝国陸軍中央の金谷範三参謀総長に宛てた電信で、北満もふくめた全満州の治安維持を担うべきであるとの意見を上申した。これは、事実上、全満州への軍事展開への主張であった。本庄司令官は、そのための3個師団の増援を要請し、さらにそのための経費は満州において調達できる旨を伝えた[13]。こうして、満州事変の幕が切って落とされた。

 翌9月20日、奉天市長に奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が任命され、日本人による臨時市政が始まった[5]。9月21日、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で混成第三十九旅団に越境を命じ、同日午後1時20分、部隊は鴨緑江を越えて関東軍の指揮下に入った。

9月18日決行にいたる経緯

日中関係の緊迫化


万宝山事件の衝突現場
Source: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンク

 石原、板垣らは9月下旬(27日か28日ころ)の謀略の決行を予定していた。ところが、9月初旬、東京の外務省に、関東軍の少壮士官が満州で事を起こす計画があるという情報がもたらされた。

 9月5日、幣原喜重郎外相は、栗原正外務省文書課長にもたらされた情報をもとに、奉天総領事の林久治郎に対し、関東軍の板垣らが近く軍事行動を決行する可能性がある旨を知らせ、注意を呼びかけた[22]。

 国内では、外務省の谷正之アジア局長が陸軍省の小磯国昭軍務局長にその真偽を問い合わせた[18]。また、9月11日には、昭和天皇から陸軍大臣の南次郎に対し軍紀に関する下問がなされた。

 これは、陸軍の動きを危惧した元老の西園寺公望の意向によるものであったという[18]。外相電に対して、奉天の林総領事は、厳重注意中であるが、今のところはそのような不穏な動きはみられないとの返電を一旦は送っている[22]。

 9月14日、関東軍の三宅光治参謀長から陸軍中央の建川美次参謀本部第一部長らに対し現状視察の依頼があった。陸軍中央の首脳部は天皇の意向も考慮し、関東軍の動きを牽制する意味もあって建川の満州行きを決めた。

 さらに翌15日、奉天の林久治郎総領事は、緊急情報として、関東軍が軍の集結や弾薬資材の搬出などをおこない、近く軍事行動を起こす形勢にあることを幣原外相に伝えた[22]。これは、満鉄理事であった伍堂卓雄からもたらされた情報にもとづく林の判断であった。

 あわせて林は、総領事館職員に対しては、厳重な警戒を怠らぬよう指示している[22]。

 林総領事からの緊急情報を受けた幣原外相は、すぐさま南陸相に対し、このようなことは「断じて黙過する訳にはいかない」と強く抗議した。南ら陸軍首脳は、この申し入れもあってあらためて建川少将に武力行使を差し控えさせるように指示した。この時点で建川自身は、石原らの計画の一部についてはすでに知っており、実行の期日を9月27日と考えていたという[18]。

 こうした軍中央の動向について、東京からの情報を得た石原・板垣らは、計画の中断を恐れ、当初の予定を変更して急遽決行日時を
約10日繰り上げ、9月18日の夜とした[18]。軍首脳の意向も度外視して佐官クラスの青年将校が実力行使におよんだ点では、まさに「下剋上」をあらわす現象であった[1]。

 9月18日、上述のように建川少将は満州で謀略事件が起こるのを抑える任務を帯びて、安東経由の列車でひそかに奉天に入っていたが、司令官一行が旅順に帰ったのちも板垣は奉天にのこり、建川を料亭で泥酔させた[3]。

 また、東京に出かけていた奉天特務機関長の土肥原賢二は朝鮮経由で奉天にもどる車中にあった。土肥原は謀略の詳細については教えられていなかったが、陰謀に加わった花谷正少佐が機関長代理の任にあった。こういう状況のなか板垣は、事件当日の夜、土肥原不在の奉天特務機関に陣取ったのである[3]。

 決行の夜、事件を知らせる電話が奉天特務機関から奉天総領事館にもたらされた。林総領事は知人の葬儀に出席して留守だったため、林の部下である森島守人領事が特務機関に急行した。ここで森島は外交的解決を主張したが、板垣高級参謀は即座に「すでに統帥権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉するのか」と恫喝した逸話はよく知られている。

 同席していた花谷特務機関補佐官も抜刀し、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と森島領事を威嚇した[22]。帰館後の森島は、緊急連絡により総領事館に戻った林総領事に一切を報告したうえ、東京への電報や在満居留民保護の措置をとった[7]。

事件に対する内外の反応奉天総領事館

 事件の発生した9月18日の午後11時15分、中国側の交渉署日本科長より在奉天日本総領事館に、日本兵が北大営を包囲しているが、中国側は「無抵抗主義」をとる旨の電話があった[22]。

 午前0時、午前3時ころにも、同じく交渉署の日本科長より電話で、中国側は「全然無抵抗の態度」をとっているゆえ、日本軍が攻撃を停止してくれるよう申し入れがなされた。同様の申し入れは、臧式毅遼寧省政府主席や趙欣伯東三省最高顧問からもなされたが、これらはいずれも、
張学良が、万一の場合は日本軍に対し絶対無抵抗主義をとるよう全軍に指示していたためであった[22]。

 奉天総領事館の林久治郎総領事は板垣高級参謀に対して電話をかけ、中国側は無抵抗主義の姿勢を明らかにしているのであり、日中両国は交戦状態にあるとはいえないとして外交的解決の採用を勧告したが、板垣は、中国側が攻撃を仕掛けてきたものであり、そうである以上、徹底的に叩くべきだというのが軍の方針であると答えている[22]。しかも板垣は、諌めた総領事館職員を「統帥権に口を挟むのか」と軍刀を抜いて脅したという。

 林総領事は幣原喜重郎外務大臣に至急の極秘電を送り、関東軍は「満鉄沿線にわたり一斉に積極的行動を開始せんとする方針」と推察される旨を伝えている。これは、さまざまな情報を総合すると、
関東軍の行動は単に中国軍に対する自衛的な反撃にとどまらないという見方によるものであった[22]。林は、政府が大至急関東軍の行動を制止する必要がある旨を幣原に進言しており、さらに別電では、この事件が関東軍の謀略である可能性も示唆している[22]。

現地外交官らの報告例

 事件発生直後の現地領事・公使は、
日本軍の自演を疑う報告、あるいは日本軍に不審な言動があったなどの報告をいくつも本国外務省に送っている。また満鉄総裁も軍の計画的行動と推定する報告を行っている。

軍の計画的行動と判断されるという報告[23]


12 昭和6年9月19日 在奉天林総領事より幣原外務大臣宛(電報)
今次事件は軍部の計画的行動との判断について 奉天9月19日前発 本省9月19日前着

第六三〇号(至急極秘)

参謀本部建川部長は十八日午後一時の列車にて当地に入込みたりとの報あり。軍側にては秘密に付し居るも右は或は真実なるやに思はれ又満鉄木村理事の内報に依れば支那側に破壊せられたりと伝へらるる鉄道箇所修理の為満鉄より保線工夫を派遣せるも軍は現場に近寄せしめざる趣にて今次の事件は全く軍部の計画的行動に出でたるものと想像せらる。



軍の報告に疑問点が多いという報告[24]


17 昭和6年9月19日 在奉天林総領事より幣原外務大臣宛(電報)
事件に関する対外的応答振りについて  奉天9月19日前発 本省9月19日前着

第六三五号(極秘)

今次事件の原因に付ては陸軍側の所報に疑の余地多きも差当り外人側の質問に対しては陸軍側の説明通り回答し居る次第なる処予て陸軍の積極方針宣伝せられ居ることにもあり果して充分の納得を期待し得るや頗る疑はしと思考せらる就ては右に関し何等御意見もあらば至急御回示ありたし



事件後の師団長行動が不審である、また事件前から行動準備をしていたという報告[25]


49 昭和6年9月19日 在遼陽山崎領事代理より幣原外務大臣宛(電報)
事件勃発後の多門師団長の動静について 遼陽9月19日後発 本省9月19日後着

第二二号(極秘) 往電第二一号に関し 当地軍奉天出動前後状況御参考迄に電報す

(一)十九日午前零時半北大営事件突発の情報に接し本官は不取敢情報交換旁当地軍部の行動を確かむる為即時多門師団長を官舎に往訪したる処就寝中なりし如く暫し待たされたる後師団長高級副官と共に和服姿にて迎接し又参謀長は稍遅れて軍服にて情報持参馳付来り打揃ふて面談したるが其際師団長は即座に在遼陽各部隊に出動を命じ装甲列車及貨物列車にて敏速に前電通り出発したり。

(二)之より先本庄関東軍司令官検閲の為当地滞在中去る十七日午後付属地内演習を検閲したる後軍隊輸送の予行演習を行ひ遼陽駅倉庫内に常備せる装甲列車九輌を本線に引出し不時の使用に堪へるや否やを検査せり。

(三)又同軍司令官滞在中師団司令部に於ては軍首脳者間に於て奉天城攻略の図上演習を考究せり。

(四)朝鮮銀行支店長に対し十八日午後二時頃経理係員より営業時間外何時にても軍部の必要に応じ現金引出に応じ得るや否や予め質す処ありたる趣なり。

支、北平、奉天へ転電せり。

※多門師団長は多門二郎陸軍中将


諸情報からの計画的行動と推定されるという満鉄総裁報告[26]


60 昭和6年9月19日 内田満鉄総裁より幣原外務大臣宛(電報)
今次事件は軍部の予定計画の実現との推定について 満鉄構内9月19日後発 本省9月20日前着

今回の事件の拡大性に付ては領事館員に対する板垣参謀の口吻より察するに満鉄沿線に於ける支那側兵用地の軍事占領続行するものと思はる。鳳凰城への進軍は其一例なり。支那側の態度は頻々たる総領事への電話要求に依り察するに皇姑屯事件の際の如く無抵抗主義を執れり。此の結果外交上至難なる事態を惹起するは想像に余りあり。此の軍事占領の理由は北大営に属する支那兵が鉄道を破壊せりと謂ふにあるが唯今迄我社保線係を三度現場に差向けたるも入場を拒絶せられ或はレールを外せりとか或は爆弾にて破壊せりとか情報区々なり。今回軍隊出動の計画は既に十四日以来非常演習として予行せられたり。

撫順守備隊長の炭坑社員等に極秘として伝へし軍事行動の時期は一日遅れしも時刻は符節を合し而も第一の目標として支那飛行機格納庫の付近と称せしは今占領中の北大営に外ならず。事件の発生せし日の朝駅員が建川少将と認めし人物安奉線に依り来奉せり。其他種々なる情報を総合し我軍今回の行動は予て御話せし予定計画の実現と推定せらる。将又支那側の無抵抗態度と我軍事行動に伴ふ小事故が在留外人を刺戟し世界の輿論が我方に不利なる傾向を現はし今後に於ける対外政策益々南極に陥るなきや憂慮に堪へず。



兵士・将校に不審な言動があったという報告[27]


66 昭和6年9月20日 在奉天林領事より幣原外務大臣宛(電報)
軍側の鉄道爆破現場への立入り阻止について 奉天9月20日前発 本省9月20日前着

第六六四号(極秘)

木村理事の談に依れば鉄道爆破直後満鉄側より修理の為保線工夫を現場に入れんとしたるも軍側の阻止に依り(脱)得ざりしが破損個所は下り線約七十サンチ上り線約十サンチが爆破せられたるものらしき痕跡あり。枕木の破損も二本に止まり破損個所も両線合計一米に達せざる為容易に修理し得たる訳なる由なり。又奉天警察特務は兵卒が昼以来準備を命ぜられ又復夜間演習かと思ひ居たるに本物なりしと語り合へるを耳にしたることあり。又十八日午後(事件前)当館一館員は海城より来奉の一将校が既に水杯を為して来れる旨を語り居れるを聞込みたることあり御参考迄。



日本軍武官自身が計画的行動と見ているという報告[28]


昭和6 一二七五二 暗 上海十九日後発 本省九月十九日後着
幣原外務大臣 重光公使

第九八一号(極秘)

十九日田代武官は奉天事件は予々中村事件交渉の際に用意しありたる陸軍側の計画を十八日夜の事件に依りて其儘実行されたるものと思はるる旨を述べ居たり御参考迄(右情報の出所は省外に洩れざる様せられたし)



鉄道爆破とは別の計画(鉄道爆破に付随する計画?)もあったという報告[29]


5 昭和6年9月19日 在奉天林総領事より幣原外務大臣宛(電報)
撫順守備隊長等による中国飛行場襲撃計画について 奉天9月19日前発 本省9月19日前着

第六二一号

九月十七日夜撫順炭坑庶務課長当館に来訪し九月十四日撫順守備隊長は臨時警備会を開き在郷軍人会長警察署長憲兵隊長炭坑庶務課長撫順駅長及大官屯駅長の参集を求め同守備隊長は中村事件交渉応援軍事行動の一として十八日午後十一時三四十分頃出発牛相屯に至り下車し渾河を渡渉し支那飛行機を襲ふ計画に付満鉄は列車を準備せられたく又出発後の炭坑防備は在郷軍人を主とする防備隊に於て当られたし但し本件は厳秘に付せられたしと述べたるが十七日朝に至り本件は交渉上の都合に依り一時延期となりたる旨通告を為せりとの報告を為したるが本官は右は出先守備隊が中村事件に関し興奮の余り準備せる計画にして実現せられざるものと観察したるも尚為念木村理事と連絡し注意を怠らざりし際に不幸にも十八日夜の衝突事件を惹起するに至れり。

支、北平、南京へ転電せり。
21 昭和6年9月19日 在奉天林総領事より幣原外務大臣宛(電報)
撫順守備隊の動向について 奉天9月19日前発 本省9月19日前着

第六四〇号(暗)

往電第六二一号撫順警備会談に関しては同電所載炭坑庶務課長の報告には一時延期となりたりとの趣なりしも本官より直に軍司令官の注意喚起手筈(郵便にて)を取り置きたるも十八日夜事件発生せる為遂に間に合はざりし次第なり。

支、南京、北平に転電せり。



軍が弁解するので聞き流しておいたという報告[30]


87 昭和6年9月21日 在奉天林領事より幣原外務大臣宛(電報)
撫順警備会議に関する軍側の弁明について 奉天9月21日前発 本省9月21日前着

第六七九号

二十日午後八時三宅参謀長来訪し往電第六二一号の報告の本月十四日撫順に於ける警備会議の件に関し右は川上中隊長が性質粗笨なりし為演習計画を余りに強く説明したる為今回の事変が軍の計画的行動なるやの疑を招くこととなりたる次第なるに付誤解なき様希望すとて縷々弁明を試みたるに付本官は唯之を聞き置くに止めたり

支、北平、南京に転電せり



事件の影響


愛新覚羅溥儀
Source: Wikimedia パブリック・ドメイン, リンクによるCommons 

 柳条湖事件は満州事変へと拡大し、若槻内閣による不拡大方針の声明があったにもかかわらず、関東軍はこれを無視して戦線を拡大、1931年11月から翌1932年(昭和7年)2月までにチチハル・錦州・ハルビンなど満州各地を占領した。

 その間、若槻内閣は閣内不一致で1931年12月に退陣、かわって立憲政友会の犬養毅が内閣を組織した。関東軍は満州より張学良政権を排除し、1932年3月には清朝最後の皇帝(宣統帝)であった
愛新覚羅溥儀を執政にすえて「満州国」の建国を宣言した。

 犬養内閣は満州国の承認には応じない構えをみせていたが、同年5月の五・一五事件では犬養首相が暗殺されて、海軍軍人の斎藤実に大命が下ると斎藤内閣は政党勢力に協力を要請して挙国一致内閣を標榜、軍部の圧力と世論の突きあげによって満州国承認に傾き、同年9月には日満議定書を結んで満州国を承認した。

 一方の
中華民国は、これを日本の侵略であるとして国際連盟に提訴した。列国は、当初、事変をごく局所的なものとみて楽観視していたが、日本政府の不拡大方針が遵守されない事態に次第に不信感をつのらせていった。

 1932年1月に関東軍が張学良による仮政府が置かれていた錦州を占領すると、アメリカ合衆国は日本の行動は自衛権の範囲を超えているとして、パリ不戦条約および九か国条約に違反した既成事実は認められないとして日本を非難した。

 国際連盟は、1931年12月10日の連盟理事会決議によって、1932年3月、満州問題調査のためにイギリスのリットン伯爵(ヴィクター・ブルワー=リットン)を団長とするリットン調査団を日本と中国に派遣した[45][46]。調査は3か月に及んで同年6月に完了、同年10月には調査の結果をリットン報告書として提出した。

 その報告書において、9月18日およびそれ以降の日本の軍事行動を自衛とは認められないと結論付けている。

事件名称について

 この事件の発生地は、独立守備隊の歩兵第二大隊第三中隊の柳条湖分遣隊の兵舎北方約1.5キロメートル地点であり、その周囲の地名は柳条湖(柳條湖)であった。

 しかし、この爆破事件および事変全体を策謀したひとりであり、9月18日当夜に軍事行動を指令・指揮した板垣征四郎は、事件の報せを聞いて駆けつけた奉天総領事館の森島領事に対し、
発生地を意図的に「柳條溝」と伝え、複数のマスメディアに対してもそのように伝えた[3]。

 
理由不明ながら、その時点で発生地名はいわば「創作」されたのである[3]満鉄の記録でも9月19日から「柳條湖」が「柳條溝」に訂正された。

 9月24日、内外マスメディアに対し、事件を説明したのは第二大隊長の島本中佐であったが、板垣発表と齟齬をきたさないため、自分の守備範囲の地名を「柳條溝」という虚偽のかたちで示さざるを得なかった[3]。

 しかし、「柳條溝」が事件発生地として一躍有名になった一方で、本来の地名は柳条湖であり、分遣隊の存在もあったので、関東軍内や陸軍部内でもすぐに「柳條湖」に訂正された。

 1932年の満州国建国後は「五族」にとっても親近感のある「柳条湖」に徐々に改められ、1935年(昭和10年)の参謀本部編『満洲事変史』でも「柳條湖」と表記された[3]。

 ただし、その後も、軍部においても「柳條溝」の表記はかなりみられた。満州国では1936年以降新聞でも「柳條湖」に修正したが、日本国内ではマスメディアの「柳條湖」への修正は1940年以降となった[3]。やがて敗戦のためにこの修正の事実そのものが忘れられ、一方、極東国際軍事裁判などでは発生段階の「柳條溝事件」が使用されたり、「奉天事件」「奉天事変」の名称も正式名称的に用いられるなどしたため、「柳条湖」の地名はしばしば忘却されたのである[3]。

 日本近現代史の研究者である武蔵大学教授島田俊彦は1967年(昭和42年)、基本史料の発掘にともなって発生地の本来の地名が「柳条湖」であることを再発見、1970年(昭和45年)には改めてその事実を指摘し、「柳条湖事件」の呼称を提唱した。しかし、当時は唯物史観全盛で「十五年戦争論」(日本陸軍は一貫して侵略戦争を進めていったとする議論)の立場に立つ研究者が優勢で、防衛庁の史料なども用いて史実の多様な側面を考究しようという島田の研究は呼称問題をふくめて無視された[3]。

 その後、1981年(昭和56年)に中国で公表された徐建東・王維遠論文に「柳条湖事件」とあったため、日本では、徐・王の当該研究を契機に「柳条溝」の誤りが正されて「柳条湖」になったとする見解が流布した[3][注釈 13]。

 山田勝芳(東北大学名誉教授、中国史、東アジア社会制度史)はしかし、それについては島田の研究が先行していることを強調したうえで、事件直後の経緯を考慮すれば「柳条溝事件」も決して単純な「誤り」ではなかった(当初の事件名はやはり「柳條溝事件」であった)として、「柳条湖(溝)事件」の表記を提唱している[3]。

 なお、山田は、島田の研究が無視された経緯について、さらに関係研究者の文章に即して検討した「「満洲事変発生地名の再検討」余論」を公表し、それら関係研究者が意図的に島田説に言及しなかった可能性が高いことを具体的に指摘している。

 
今日では、本来の発生地名を冠した「柳条湖事件」が定着している。