エントランスへはここをクリック

「弾薬を惜しんで斧を使った」:
現代ウクライナのナチスの英雄が
WW2中に市民を虐殺した方法 RT
ヴォリン(Volyn)では罪のないポーランド人が
何万人も虐殺された。今日に至るまで、
拷問を行った者達はその罪を咎められていない

They used axes to spare the ammo’:
How modern Ukraine's Nazi heroes
massacred civilians during WWII
Tens of thousands innocent Poles were
massacred in Volyn. To this day,
the torturers are still not condemned

筆者:Evgeniy Norin
ロシアの戦争と国際政治を専門とする
ロシア人歴史家、エフゲニー・ノーリン

RT  Feb.9 2022

翻訳:池田こみち(環境総合研究所顧問)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年2月10日
 

本文

 第二次世界大戦(WW2)は、巨大な軍事同盟同士の対決として捉えられることが多い。しかし、実際には、この壮大な戦争の中で、多くの小さな紛争が個別に展開され、民族と国の間の闘いは、しばしば妥協も容赦もなく行われていたのである。

 第二次世界大戦の最も暗く、最も知られていないページの一つが、ヴォリン虐殺である。これは、現在ほぼウクライナの一部となっているヴォリン地方で、親ナチのウクライナ人民族主義者によって行われた民族浄化である。

© archiwa.gov.pl

 ヴォルィーニャ(Volhynia)は歴史的に国境地帯であった。この湿地帯の森は、中世にはロシアの一部であり、後にポーランド・リトアニア連邦(全盛期のポーランド国家)の一部となった。ポーランド分割により、ヴォルィーニャはロシア帝国に組み込まれた。第一次世界大戦、ボルシェビキ革命、ロシア内戦を経て、ヴォルィーニャは再び独立したポーランドの一部となった。つまり、この地域は、小さな僻地ではあるが、しょっちゅうその帰属・支配者が入れ替わっていたのだ。

 第二次世界大戦が始まるころには、良好な農業地帯として、多様な人口を抱えるようになっていた。この地域の住民の約70%はウクライナ人、16%がポーランド人、さらに10%がユダヤ人であった。ポーランドが新たに独立した最初の20年間は、ヴォルィーニャではウクライナの民族組織が禁止されていたし、何よりも貧困が非常に深刻な問題であった。

 都市化のレベルは極めて低く、ヴォルィーニャには農民のための良い土地はほとんどなかった。国家間の緊張はすでに存在していたが、その根源は経済的な問題からきていた。少数民族のポーランド人は平均的に豊かで、中央当局はヴォルィーニャの最良の土地をポーランド人の退役軍人に分配していた。

 1939年、ドイツがポーランドを攻撃し、第二次世界大戦が始まったが、数週間でポーランド軍の主力部隊は敗退した。そんな中、1939年9月17日、ソ連軍がウクライナ西部とベラルーシの領土に進駐してきた。ポーランド人はこれを裏切り行為と考えたが、ポーランド自身はロシア内戦の末期に東部諸州を強制的に占領して手に入れていた。

 モスクワから見れば、ナチスから住民を守ると同時に、大規模な戦争に備えて自国の緩衝材を作ったことになる。いずれにせよ、ソ連邦内の各民族共和国は、それぞれ固有の住民を持つ領土から形成されていた。ロシア帝国が滅んだ後の国境線は、国家原理によるものではなく、敵対関係の結果生じたものである。ウクライナ人が多く住むヴォルヒィニアは、ソビエト連邦のウクライナの一部となったのだ。

 当然ながら、国境線を引き直したからといって、民族間の緊張がなくなるわけでもない。少数民族のポーランド人は、これを全く快く思っていなかったし、ロンドンに亡命中のポーランド政府も、一寸の土地も手放すわけにはいかなかった。ポーランド政府は、ベラルーシ西部とウクライナの係争地であるクレシー(Kresy)を自国領土と見なし続けた。

 1941年、ナチスはロシアに対して壮大な征服作戦を開始した。開戦はソ連にとって悲惨なものだった。赤軍はたちまち大敗を喫し、ドイツ軍は文字通り1~2週間でヴォルヒィニアを占領した。

 しかし、ナチスのヴォルヒィニアに対する支配力は、それほど強いものではなかった。戦略的にも経済的にもあまり重要でなかったので、実際にドイツ軍が押さえていたのはいくつかの都市だけであった。しかも、地方ではさまざまなゲリラ・反乱軍が活動していた。ポーランドの「本国軍」は、ポーランドの支配を回復することを任務とみなしていた。

 ソ連のパルチザンは、自国の利益のためにナチスと戦った。ヴォルヒィニアはまた、ウクライナ民族主義者組織にとって重要な活動拠点の1つであった。OUN(ウクライナ民族主義者組織)は独立した役割を果たそうとしたが、当初はナチスの庇護のもとに活動し、組織自体も派閥に分かれていた。

 しかし、すべてのウクライナ民族主義運動(OUN)は、ヴォルィーニャの非ウクライナ系住民に反対することで一致していた。OUNの政策文書『国家生活組織の初日に関する指示』には、はっきりとこう書かれていた。「少数民族は我々に友好的なものと敵対的なものとに分けられる」 後者には、モスクワ人、ポーランド人、ユダヤ人 が含まれる。「友好的」と「敵対的」の違いは、「友は...祖国に帰ることができる」という点だけである。

 この文書によれば、「敵対的」な少数民族は「闘争の中で破壊される」対象である。この傑作なレトリックには、次のような言葉が添えられていた。「わが国政府は敵対勢力に対して恐ろしい存在であるべきだ。外国人の敵とその裏切り者には恐怖を与える。」と。この後の文章で、民族浄化計画は詳細に説明されている。

 この「人食い」宣言が、実は1941年5月の独ソ戦開始前に作成されたことは不思議である。当初は、ウクライナ人民族主義者の反ユダヤ主義は例外を許さず、ポーランド人は知識人「だけ」を破壊し、普通の農民を同化させようと計画するなど、一種の分離が行われていた。

 戦争が始まると、民族主義者たちはドイツ国防軍(Wehrmacht)に続いて「モスクワ人、ポーランド人、マジャール人、ユダヤ人」を滅ぼそうと呼びかけ、国民にOUNとその指導者ステパン・バンデラへ(Stepan Bandera)の服従を要求するようになった。

 実際、民族主義者の補助部隊は、ナチスよりも早くユダヤ人の殺害を開始していた。民族主義者の少数民族に対する態度は、一般にドイツ人よりも悪質で妥協がなく、無条件殺人の対象となる人々の範囲はより広かった。民族主義者はゲシュタポを利用して民族浄化を組織しようとさえしていた。


松明を手にするウクライナ民族主義政党の活動家と支持者たち の生誕113周年を記念する集会に参加しているところです。ウクライナ民族運動の指導者の一人であるステファン・バンデラ氏。ウクライナ民族主義者組織(OUN)の指導者、キエフ,ウクライナ © Sputnik

 しかし、ナチスとウクライナの民族主義者の蜜月は長くは続かなかった。ドイツ側は、民族主義者のバンデラ(Bandera)や彼のウクライナ独立計画を、ソ連の占領地内に独立国家を想定していない自分たちの計画の障害と考えるようになったのである。

 バンデラはすぐに逮捕された。ドイツ軍は民族主義者を自分たちの部隊の中で利用し、OUNは方向転換を決意し、モスクワの思惑に乗らないよう、また、ナチスとは戦わないことにしたのである。実際、ドイツ軍との衝突はランダムに起こるもので、滅多にないことだった。民族主義者たちは地下で活動し、かなり長い間、主にプロパガンダに従事していた。1941年の夏にドイツ軍から受け取ったもの、戦場から回収したもの、占領軍に賄賂を渡して入手したものなど、武器は十分にあった。

 1942年末になると、ドイツが戦争に負けたことが明らかになり、民族主義者たちの計画も変わっていった。彼らは依然として武装蜂起を計画していたが、「少数民族の問題」の解決策は再び更新された。ロシア人に対する態度は軟化した。

 今度は「活動家」だけが破壊されることになった。ユダヤ人は「大きな影響力」を持っていると見なされたので、国外追放されるだけだった。しかし、ヴォルィーニャ最大の少数民族であるポーランド人は、最も残酷な方法で対処されることになった。「全員を立ち退かせ、立ち退きを拒否する者を抹殺する。」という方針だった。

 1943年の初め、ナチスによって編成されたウクライナの補助警察は、一斉に脱走してOUNの隊列に加わり始めた。合計で5,000人もの元警察官が地下に潜った。彼らはすでにホロコーストのユダヤ人虐殺や、ロシア人、ベラルーシ人の殺害に加わっていたのだ。ナチスによるソ連占領は、非常識なほど残酷なものだった。

 占領地の住民は、誇張なしに2~3年間、挽肉器の中で過ごしたも同然だ。多くの地域で、人口の4分の1までが、処刑や村の焼き討ち、また組織的な飢饉や人道的大災害によって殺された。多くの村や小さな町さえも完全に虐殺された。補助民族主義(国家主義)部隊は、しばしばこうした脅迫行為や大量虐殺の実行に直接の責任を負っていた。容易に推測できるように、これらの人々は、過剰なまでの良心の呵責や道徳的原則に苦しんでいたわけではない。

 1943年春、ヴォルィーニャの情勢は災難に見舞われる前兆だった。ソ連、ポーランド、ウクライナのパルチザングループ間の脆弱なパワーバランスは崩れ、一時は民族主義者が森の主役となった。大量殺戮のための理論的枠組みはすでに出来上がっており、民族主義者の地下には人道的世界観にとらわれないナチスの警官の大群が補充されたのである。

 1943年4月になると、多くの残虐行為を目撃して自分も聖歌隊員ではなくなっていたソ連のパルチザンは、ぞっとするような報告をするようになった。

 「国軍の100人の隊員が、ツマン地区(Tsuman District)でポーランド人を殲滅する任務に就いた。地元住民は虐殺され、ザウロク(Zaulok)、ガリノフスク(Galinovsk)などの集落は焼き払われた。3月29日、ガリノフク村で18人が切り殺された。残りは森に逃げ込んだ。バンデラの民族主義者たちは、ポーランド人医師の妻に案内され、医師の耳と鼻を切り落とした。プンディンキ村(Pundynki)では50人ものポーランド人が銃殺された。"

 短い議論の後、OUN指導部はポーランド人の大量抹殺を承認した。この粛清の主要な扇動者はドミトリー・クリャチコフスキー(Dmitry Klyachkovsky)、別名「クリム・サヴール(Klim Savur)」で、彼は以前ポーランドとソ連の両方で過激派のために逮捕されたことがあった。国防軍の攻撃中にソ連の刑務所から逃亡した彼は、今度はOUN軍の重要な指揮官の一人として、大虐殺の立役者となった。

 この攻撃は、原始的な宣伝活動によって先行された。暴徒の一人、ジュヒム・オルリョク(Juhim Orlyuk)は、後にソ連の秘密警察の尋問でこう語っている。

 「1943年の5月か6月頃、2人の人間がモギルノエ村(Mogilnoye)に到着した。ウラジミール・ヴォリンスキー(Vladimir Volynsky)という名前の人物がいて、村人たちは『アイアン(鉄人)』と呼んでいた。彼は山から1キロほど離れたオストロボック(Ostrovok)という村の出身だった。もう1人は知らなかった。

 彼らはモギルノエ(Mogilnoye)のウクライナ人全員を村の学校に集め、ウクライナの反乱軍から派遣されたと発表した。次に「アイアン」は、その場にいる人々に、敵と戦いたいか、戦う気があるかを尋ねた(具体的に誰と戦うかは言わなかった)。

 その場にいた者は、「覚悟はできている」と答えた。そして、ドイツ軍は戦争に負け、ドイツで革命が起こり、赤軍は旧国境にしか到達しない、その時、多くの人を抱えているウクライナの反乱軍が立ち上がり、ウクライナの独立国家ができる、と言ったのである。

 ヴォルィーニャはポーランド、ソ連どちらのパルチザンにとっても主要な活動地域ではなかった。ヴォルィーニャのパルチザン部隊は小規模であった。ポーランド人はほとんど武器を持っていなかったし、ロシア人は主に他の地域に集中していた。ソ連のパルチザン分遣隊はドイツ軍と必死の戦いを続けており、新しい戦線の出現は彼らにとって予想外の問題であった。ポーランド人はプリヤツフキ(plyatsuvki)と呼ばれる自衛分遣隊と、それを支援する機動的なパルチザン部隊を作った。

 また、ヴォルィニャでは、ソ連のパルチザン運動の一環として、ポーランド人の集団も活動した。しかし、どの部隊も武器・弾薬の不足が深刻で、殺人鬼を阻止することはできなかった。ソ連パルチザンは、ドイツ軍施設に対する破壊工作を中心に活動し、村を守るための十分な戦力や装備を持ち合わせていなかったのである。さらに悪いことに、ソ連とポーランドのパルチザンの間には、明らかに信頼関係が欠如していた。

 一方、事件は急速に進展していた。後にヴォリンの大虐殺と呼ばれるようになる事件は、1943年2月9日のパロスリヤ村(Paroslya)への襲撃であるとされている。武装勢力は弾丸を無駄にしない。ポーランド人は斧で切り刻まれた。多くの村が、同じようなやり方で処理された。3月、リプニキ村(Lipniki)が破壊された。

 その時、誤って見落としていた1歳半の赤ん坊が、生き残っていた。祖父を銃剣で刺された赤ん坊は、翌朝、偶然、雪の中で死屍累々の中に横たわっているのを発見された。この子は、ポーランド人初の宇宙飛行士ミロスラフ・ゲルマシェフスキー(Miroslav Germashevsky)に成長するのである。

 血に酔い、殺戮はますます凶暴になった。ポーランド人女性は強姦され、多くのポーランド人は殺される前に残酷な拷問を受けた。殺人は、主に農機具など即席の道具を使って行われた。政治的な暴力が犯罪的な暴力を生むことはよくあることである。最も不謹慎な農民は、他人の土地を不正な手段で手に入れようとし、しばしば最も単純な方法、つまり所有者を殺害することを用いた。また、国粋主義者たちは、普通の農民を血縁関係別に拘束した。彼らは捕虜を山に追い込み、ウクライナの農民たちに殺すことを強要した。

 ナチスは、実に極悪非道な工夫を凝らして虐殺を行った。すでにウクライナ人を殺していたポーランド人の協力者からなる警察分遣隊がヴォルヒィニアに入ったので、多くの農民はドイツ人の残虐行為をポーランド人による復讐と受け止めたのである。

 ヴォルィーニャの民族浄化は数ヶ月間続き、東から西へ徐々に移動していった。殺戮者たちは、ナチス警察の懲罰作戦で培った経験を無駄にすることなく、軍隊の作戦のように規律正しく、計画的に虐殺を行った。例えば、村人を一つの建物に集めて焼き殺すのはナチスの特徴であり、グーチン(Guchin)で40人ほどのポーランド人が同じように殺された。ポーランド人の女性をかくまっていたウクライナ人も一緒に処刑された。また、最初はポーランド人に友好的な態度を示して、すぐに逃げないように拘束し、その後、何かもっともらしい口実で犠牲者を一カ所に集めるというのもよくある手口だった。

 被害者は徹底的に奪われ、家は燃やされた。そして、ただ処刑するだけでなく、文化的価値も破壊しようとした。ポーリツカ(Poritska)で約100人のポーランド人が一斉に射殺された後、民族主義者たちは18世紀の教会を砲弾で爆破し、建物の残骸に火を放った。指揮官たちは、個人的に殺戮に参加することをためらわなかった。例えば、リブネ近郊でOUN軍を率いていたピョートル・オレイニク(Pyotr Oleinik)(通称「エネアス(Aeneas)」(注:トロイア戦争のトロイ側のリーダーであった神話のギリシア人の戦士)は、捕虜にしたポーランド人を自ら処刑した。

 オストロフキ村(Ostrovki)では438人が殺され、うち246人が14歳以下の子供だった。「幼児を含むポーランド人全員が破壊(切断、切り刻み)された。森に逃げ込んだポーランド人を5人射殺した」と、捕虜になった過激派が後に、別の村への攻撃に参加したことをソ連の捜査当局に尋問された際、語っている。


資料写真。1943年、ウクライナ反乱軍によるリプニキ村での大虐殺されたポーランド人犠牲者。© ウィキペディア

 凶器は原則として農民の道具である斧、熊手、ナイフ、ハンマーなどであった。場合によっては、最初の襲撃の時に何とか隠れていた人を見つけるために、2回目の掃討が行われ、灰になった場所に戻ってきたこともあった。ポーランド人の交渉の試みは失敗に終わった。本国軍は、ウクライナ語をよく話す将校で詩人のジークムンド・ルンメル(Sigmund Rummel)をOUNの指導者と交渉するために派遣した。彼と、彼に同行していた将校と案内人は、捕らえられて拷問で死亡した。

 残虐行為のピークは1943年7月11日で、民族主義者たちは一度に100ものポーランドの村を破壊した。村は封鎖され、指定されたグループが侵入して報復を行ったのだ。

 1944年の冬まで、殺戮は小規模に続けられた。様々な推定によると、合計で4万から6万人のポーランド人が殺された。ソ連のパルチザン分遣隊に参加したり、OUN分遣隊が活動していない都市に避難したりして、最大7千人が逃亡した。ポーランド人のほか、1000人近くの「不忠実な」ウクライナ人、1000人以上のユダヤ人、約135人のロシア人が殺された。さらに、ポーランド内戦軍や親ドイツの協力者が2,000人以上のウクライナ人を殺害した。

 1944年の作戦では、ドイツ国防軍は敗北し、ヴォルヒニアは赤軍によって解放された。ソ連政府にとっては、OUNとヴォーリンの虐殺で結成された「ウクライナ反乱軍」(UPA)が大きな頭痛の種となり、多数の武装集団が深刻な問題を引き起こしたのである。1945年までに民族主義者の主要勢力は敗退した。

 ヴォーリンの虐殺は、ソ連当局の立場からすれば、確かに犯罪であった。そのため、ヴォリン虐殺でOUNの中心的指揮官だったユーリ・ステルマシュク(Yuri Stelmaschuk)は、1945年1月に逮捕され、裁判にかけられた。

 裁判では、ステルマシューク(Stelmaschuk)は「クリャチコフスキー(Klyachkovsky)のポーランド人虐殺の命令を妨害しようとした。」と容疑をかわそうとした。しかし、5千人のポーランド人殺害の罪は確定し、死刑を宣告され、銃殺された。リブネ(Rivne)近郊のOUN軍司令官ピョートル・オレイニク(Pyotr Oleinik)は、1946年2月のNKVD(ソビエト連邦内務人民委員会)の特別作戦で銃殺された。

 ※注)NKVD
 内務人民委員部は、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン政権
 下で刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括して
 いた人民委員部。「エヌカーヴェーデー」と略称される。
  (Wikipedia)

 最後に、大虐殺の首謀者であるドミトリー・クリャチコフスキー(Dmitry Klyachkovsky)は、ステルマシューク(Stelmaschuk)が逮捕され、尋問によってその隠れ家を明らかにしたお陰で処分されたのである。NKVDの大部隊がクリム・サヴラ(Klim Savura)の分遣隊を包囲して撃破し、実行犯自身も追跡中に瀕死の重傷を負った。

 現代のウクライナにとって、ヴォリンの大虐殺は不都合な話である。第二次世界大戦中のウクライナの民族主義者は国家の英雄とされており、この人々が恐ろしい犯罪で自らを汚したという事実は深刻な問題を引き起こす。特に犠牲者がポーランド人であり、現代のポーランドはウクライナの同盟国であり後援者とさえみなされているのだから。しかし、この英雄崇拝がすぐに変わることはないだろう。

 ウクライナの公共政策全体が、OUNを崇拝する民族主義者に大きく影響されているため、殺人者たちは今のところこの台座(礎)の上に置かれたままでいる運命にあるのだ。