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再短訪 鎌倉
日蓮の足跡をたどる鎌倉の旅

安国論寺3 南面窟 

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
January 21, 2022
Independent Media E-wave Tokyo


安国論寺の白猿に導かれた 南面窟
出典:kozo nagai氏 グーグルストリートビュー


日蓮の足跡をたどる鎌倉の旅 2022-1-21
はじめに   安国論寺1   安国論寺2   安国論寺 南面窟 
妙法寺1   妙法寺2  妙本寺1   妙本寺2   妙本寺3
比企一族供養塔  蛇苦止堂   本覚寺   えびす堂 
日蓮辻説法跡   光則寺  日朗土牢  雨乞伝説・霊光寺

アクセス

 安国論寺日朗荼毘所の横の道を登り、以下のグーグルマップにあるように、ぐるりと高台をまわったところに南面窟がある。徒歩で約5分である。


 
 ただし、安国論寺同様、駐車場はないので、近くのお有料駐車場に車を駐車させ、歩いて行くことになる。また南面窟は、一旦安国論寺の境内に入り、その後、上のグーグル地図にあるように。日朗上人荼毘所の横の坂道を登ってゆくことになる。
 
 安国論寺南面窟の地番、〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町4丁目4


安国論寺南面窟

 南面窟は安国論寺の裏山中腹にある窟である。日蓮聖人が立正安国論を政府に手渡した40日後、念仏信者が草庵(現在の安国論寺)に来襲し、庵を焼き討ちにした。

 これを、松葉ヶ谷法難という。庵を追われた日蓮は、白猿に導かれてこの南面窟に避難したという。ここにも、増上寺の灯篭があるが、これは戦後、空襲で焼失した増上寺の霊廟にあった多くの灯篭を首都圏の寺院に移設したものである


 以下の参考出典は鎌倉タイムズ

 日蓮聖人は戦う人であったが、この安国論寺は、美しく整えられた樹々と自然の谷戸が溶け合ってとても穏やかで落ち着くお寺である」す。自然の中に包まれているような心地よさが味わえる。

 日蓮上人は1222年(貞応元年)、千葉県鴨川市で産まれました。1238年(暦仁元年)16歳の時に地元の清澄寺において出家し、比叡山、三井寺、薬師寺、高野山、仁和寺、天王寺、東寺において15年の修行を重ね、清澄寺に戻り、1253年(建長5年)、「南無妙法蓮華経」と唱え悟りを開いた(立教開宗)と言われています。

 「南無」とは帰依しますの意で、「妙法蓮華経」とは法華経を指しますから、「南無妙法蓮華経」とは法華経に帰依しますという意味となる。

 日蓮宗は法華経を信奉するとともに、他の教典や教えを信じる宗派を一切認めないのが特徴であった。当時、元執権北条時頼に提出した有名な立正安国論でも、「地震や疫病などの災害が続くのも法華経を信じず、浄土宗などの邪教を信じているからだ」として、法華経を中心とする国家建設を説きました。

 その激しさから、他宗の僧らによって鎌倉松葉カ谷の草案が焼き討ちにあったり、幕府によって伊豆に流罪となりました。1271年には腰越滝の口刑場(現 龍口寺)において処刑されかけます(ぎりぎりで助かります)。

 安国寺の南面窟は、その松葉ヶ谷法難の際に、日蓮聖人が身を隠したという洞窟である。


妙法寺1つづく