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再短訪 鎌倉
日蓮の足跡をたどる鎌倉の旅
本覚寺2 えびす堂

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
January 21, 2022
Independent Media E-wave Tokyo


鎌倉市小町1-12-7にある本覚寺のえびす堂 
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900   短訪 鎌倉 2022-1-21

日蓮の足跡をたどる鎌倉の旅 2022-1-21
はじめに   安国論寺1   安国論寺2   安国論寺 南面窟 
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比企一族供養塔  蛇苦止堂   本覚寺   えびす堂 
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えびす堂へのアクセス

 えびす堂は、以下のグーグルマップにあるように、妙本寺の長い参道の西側出発点近くの本覚寺境内の東側入口北にある。
 
 えびす堂の地番:〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町1丁目12−7


出典:グーグルマップ

 本覚寺の山門(仁王門)を入ると、右手に夷堂(えびすどう)がある。

 この夷堂は、鎌倉幕府の裏鬼門(きもん)という悪い方角に当たるということで、幕府の守り神として源頼朝が七福神のひとつである夷神をまつったところである。

 この夷堂は、源頼朝が鎌倉幕府の開幕の際に、幕府の裏鬼門(南西)にあたる方向の鎮守として建てたとされ、天台宗系のものであった。

 文永11年(1274年)に佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていた。

 その後の永享8年(1436年)に一乗院日出が日蓮にゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建したという。

 後に身延山を再興した第2世の行学院日朝は、身延山への参詣が困難な老人や女性のために、身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めた。

 本覚寺が「東身延」と呼ばれる理由である。元々は中本山であったが昭和49年(1974年)に本山(由緒寺院)に昇格している。

 現住[いつ?]は52世永倉日侃(にちかん)貫首(藤沢市常立寺より晋山)。潮師法縁。

 鎌倉市内中心部を貫流する滑川の本覚寺の前にある橋は「夷堂橋」と呼ばれる。

・夷堂

 前身となった天台宗の夷堂は、本覚寺の創建時に境内に移されたが、明治の神仏分離令によって寺とは分離され、地区の七面大明神、山王台権現を合祀して蛭子神社(ひるこじんじゃ;「蛭子」は「えびす」とも読む)となった。

 昭和56年(1981年)に本覚寺境内に再び夷堂が再建された。なお、蛭子神社は現在も近隣(旧鎌倉警察署奥の突き当たり)にある。


正覚寺のえびす堂額  撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 えびす堂前にはお札を売っている売店があり、「にぎり福」という縁起物が人気となっているす。池田は、にぎり福に「愛・健・財・学・福」の5種類あるのを知らずに、二つ買ったが、あとから、それが「財と健」だったと分かりました。今度行ったら残りの3つを買い求めたいと思っている。    (写真2枚添付)IMG-9657.jpg IMG-9658.jpg


写真:池田こみち Nikon Coolpix S9900


写真:池田こみち Nikon Coolpix S9900



本覚寺えびす堂のはっきりと見える隠れ屋根
Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 

鎌倉本覚寺、楼門の一手先(ひとてさき)
Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

 ※注)【建築組物】 …壁から直角に前方へ出たものを
   手先(てさき)の組物といい,三斗組で前方に肘木
   を出し,先に斗をのせたものを出三斗(でみつど),
   その先の斗の上に1組の斗と肘木をのせたものを
   出組(でぐみ)という。 出組よりもう1手出れば二手
   先(ふたてさき),以下,三手先,四手先となる
   出典:Wikipedia



本覚寺(鎌倉市)の「初えびす」の様子
Source:Wikimedia Commons Kounosu - <span class="int-own-work" lang="ja">投稿者自身による作品</span>, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


元旦未明の鎌倉・本覚寺
Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる


日蓮辻説法跡へつづく