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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

通州事件:知られざる抗日蜂起
.Sina 2005年7月28日
通州事变:鲜为人知的抗日起义

  中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年11月22日


通州事件の生存者        事件翌日、日本軍救援部隊によって撮影
写真出典:日本語Wikimedia Commons                    された通

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本文

  今から68年前の今日、通州に駐留していた1万人以上の疑似治安部隊が日本軍に立ち上がった。 しかし、七夕事件(七・七事件)の直後に行われ、国家の抗日状況が大きく変わろうとしていたこの大イベントは、様々な理由で抹殺されてしまった ......

 本紙の取材に応じてくれた周慶良氏は、通州区文物管理所の元所長である。 冀東偽政府の顧問であった奥田重信の姪が弔問に訪れたが、周青良は厳しく断った。 ここを参拝するのは、靖国神社を参拝するのと変わらないと。

 通州の旗印変更で1万人の新兵が「反乱軍」に参加させられた。

 通州事件当時、通州は冀東自治政府の所在地であったが、1935年7月、和平協定に基づき、日本は中国の河北省とチャハル、平鎮の主権の大半を掌握していた。

 10月、日本軍は河北省湘河県で裏切り者の暴動を命じ、同県を占領した。

 11月になると、売国奴たちは、いわゆる「華北五省自治運動」を実行するように促され、売国奴の殷儒生を疑似政府の議長とする22郡の「冀東反共自治政府」を通州に設立した。

 日本が通州に疑似政府を設置したのは、大運河の東側、平と天津の間に位置し、北側の山海関を支配し、南側の華北平原の後背地に入り込むことができるという理由が主なものであった。 通州を制することは、秦皇島、山海関、天津を中心とした主要な交通路を支配するという軍事的に大きな意味を持っていた。

 記録によると、1935年5月、冀東は非武装地帯に指定された。 蒋介石は、河北省主席の余学忠に密かに命じて、5つの特殊警察部隊を養成して冀東に配備させた。 余学中は、第51軍の2連隊、張清玉と張延天、および一部の大隊・中隊の将校を配置し、河北の各県から1万人以上の新兵を募って河北特警の第一・第二総大隊を編成し、通賢・湘河方面に駐屯させた。

 9月、冀東の疑似政権が檻の中から出てきて、殷儒生は冀東警備隊と改名した。 将校や兵士のほとんどは、裏切り者の政権のために働くしかなかった。 冀東警備隊は怒って叱責した。張清玉の息子は、父が疑似冀東政権に従軍していることを知り、祖先への侮辱と考え、父子の縁を切る新聞を発行した。

 1936年12月25日、日本の工作員に唆された殷儒生は「冀東反共自治政府」を正式に設立し、東北地方と中央平原周辺で日本が設立した2つ目の疑似政権となった。 疑似政権は、通県の南城城壁の東西延長線より北側の地域を疑似軍の支配地域に組み入れた。

3,000人の兵士が立ち上がり、日本軍を壊滅させる

 7月7日の事件以降、中国では反日運動が本格化した。 7月28日、日本軍は第29軍に本格的な攻撃を仕掛け、豊台などの陣地を奪還した。

 同日、張慶宇と張延天は、この機会に反乱を起こすことを決意した。 すぐに全国に電報を打って、日本軍に対抗する決意を表明した。 蜂起の本部は、通州の東街にある屋敷に設置された。

 28日の夜遅く、治安部隊は張青龍が率いる2つのグループに分かれて、西倉に駐留する日本軍の守備隊を攻撃した。 熾烈な戦いが繰り広げられた。 日本軍は西の倉庫に大量の武器・弾薬を備蓄していたので、しばらくの間は入れなかった。 その後、ボランティアたちはガソリン樽を拾い、爆発の煙を利用して敵に突撃し、日本軍の陣地を襲撃して300人以上の日本兵を一掃した。

  張炎天が率いるもう一つの軍は、冀東偽官(現在の三教寺)を攻撃し、反乱軍はこれを見事に攻略し、殷儒公を生け捕りにした。

 当時、日本軍は状況を把握しておらず、日本の特殊部隊のリーダーである細木茂上級大佐が視察に出てきて、治安部隊を指揮しようとしたが、その場で殺されてしまった。

 蜂起した将校や兵士は、当時の冀東偽政府の日本側顧問であった奥田重信も殺害した。 同日、この蜂起により、通州に駐留していた500人以上の日本軍と日本の工作員が一掃された。

 29日、3,000人の反乱軍は、第29軍との合流を目指して西に向かって進軍した。 29日の朝、反乱軍が安東門の外にいたとき、日本軍が乱入して部隊を散らし、裏切り者の殷儒公は再び日本軍の手に渡った。

 この蜂起により、通州に駐留していた日本軍と日本の工作員は一掃され、疑似冀東反共自治政府の所在地が通州から唐山に移ることに直結した。

 狂乱の報復で700人の民間人が虐殺される

 29日、通州警備隊の蜂起を知った日本軍は、熱狂的な報復作戦を開始した。 同日、飛行機を飛ばして通州の県庁所在地を順番に爆撃し、逃げなかった多くの中国の民間人を殺害した。

 30日までに、南元から1000人以上の日本軍を再び通州に移動させた。 この時点でジャップは目の前で人を殺しており、700人以上の通州市民が日本の銃剣の下で亡くなった。

 2年前、日本軍が通州の民間人を生き埋めにした「万人坑」(集団墓地)が、通州の西康の工事中に発見された。 発掘現場を見ると、通州の民間人は鎖骨に鉄線を通し、10列に並んで生き埋めにされていたようだ。 当時の光景がどれほど悲惨なものであったかは想像に難くない。

 なぜ日本人は殺戮を止めたのか? 中国人を皆殺しにしたら誰も仕えなくなる」と危惧した日本の工作員に説得されたと言われている。 当時の日本軍は、死体を運ぶ若くて強い男を街中で探し、手や顔を洗うことも許さなかった。 その後、日本軍は日本軍の死体をすべて四合院に集め、火で焼いた。 慰めの塔も建てられた。

 一方、奥田重信の遺体は、冀東虚空蔵院(三教寺)の中庭に埋葬された。 周青龍は、数年前に文廟の裏にある織田重信の墓石を掘り起こして初めて知ったという。

 その後、織田信長の姪がタバコとワインを持ってお礼参りに来たが、周慶良は厳しく断った。 周さんは、ここを参拝するのは靖国神社を参拝するのと変わらないと言っていた。

 周慶良氏によると、通州の人々は8カ国連合軍に抵抗するために組織化され、日本の占領下では、地下での抗日活動も盛んに行われていたという。 通州事件は、疑似政府内での反乱ということで、当時の日本中に衝撃を与え、非常に大きな意味を持った。


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