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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

非人道的 日本軍が北伐炭鉱
につくった「万人坑」
(遼寧省)
惨无人道!日军在北票炭矿制造的"万人坑"
作者:弓长-木东 来源:百度百科
2017年9月12日

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年1月2日
 

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本文

 1933年、日本軍は遼寧省に侵攻し、現在の遼寧省北票を占領した。その後、日本軍はここに満州炭鉱株式会社を設立し、関山、三宝、三宝を管轄した。


遼寧省北票の位置
出典:グーグルマップ

 日本軍は13年の間に、この地域から約千万トン(10,518,605トン)の良質な石炭を「人力採炭」などのファシズム的手法で奪っていった。 募集した56,530人の労働者のうち、31,200人が日本軍によって拷問死させられ(障害者とその家族は含まず)、労働者総数の55.4%が亡くなった。



 すなわち、337トンの石炭を生産するごとに、平均して1人の労働者が亡くなっていたことになる。 日本の中国侵略で黒い原料炭は奪われたが、炭鉱に残っていたのは白骨だった。

 当時太極1号シャフトとして 電気・機械クラスの児童労働者として働いていた趙富麗は、「当時、日本軍に捕まった労働者は、鉱山に入ったとたんに個人の自由を奪われた」と回想する。

 日本兵と大組閣の責任者は、労働者の写真を撮り、指紋を取り、番号を振って名簿を作り、高い壁、壁には電気格子、入り口には見張り台、そして四方に風が吹く大きな「長屋」「謝謝寮」「労働寮」に入れられた。

 寮内では向かいの大きなベッドに20数人が詰め込まれ、マットやレンガを枕代わりにしていた。 カビの生えたソルガムきびやふすまを食べたり、ピーナツ、カビの生えたモロコシ、ふすま、ピーナッツの皮などをすり潰してつくる、いわゆる「新雅麺」である。

 着ている服は、紙袋やセメント袋でつくったものあった。 冬、寒くて眠れないときは、作業場から出るとすぐに鉱山に逃げ込み、風と寒さをしのいだという。 日本軍は彼らに「炭鉱人間」を強制し、「人間採掘」政策を実施し、通常、労働者は地下で1日14から16時間。 働かなければならず、それを怠った者には賃金を支払わないというものであった。

 そして、労働者は労働時間を延長することを強制された、労働者のユチョン(周炳裕)さんの苦情によると、彼は関山第1井戸で労働者として働いていた。ある日、日本軍は彼らに300トンの石炭を小さなシフトで採掘することを強制した。20人の労働者は16時間必死に働き、採掘した石炭240トンが井戸に引き上げられた後、作業が完了していないとのことで、食事券が差し引かれ、労働者は殴られた。



 こうして、労働者は毎日、殺され、餓死させられ、疲弊していったのである。 日本軍は、人よりも石炭が欲しいという理由で、労働者に危険な労働を強いる略奪的な鉱山政策をとっていたため、坑内では大屋根の上昇、切り裂き、道路の流出、水の浸透、ガス爆発など、ひどい人身事故が頻繁に発生していた。



 ガス爆発

  ガス爆発事故も相次いだ。 記録と生き残った労働者の回想によると、1933年から1945年の間に、北伐炭素鉱山では22回の大きな事故が出て、合計485人が死亡し、無数の負傷者と障害者が出たという。

 一度に30人以上の死者が出たのは7件で、最も多かったのは2件目の150人だった。 1942年6月15日、太地竪坑の作業面でガスが限界を超えたとき、日本軍は対策を講じなかったばかりか、労働者に大砲を発射させ、その結果、ガス漏れが発生した。

  事故後、労働者とその家族は愛する人を救うために鉱山の入り口に向かって走ったが、銃剣付きの38口径の銃で武装した日本軍と鉱山警察は強制的に道を塞ぎ、人々が鉱山に近づくことを禁じ、「人ではなく井戸を!」と吠えていた。

 鉱山を救うため、軍や警察が労働者にレンガや泥を動かして坑道を封鎖するという凄惨な方法で、ついに150人以上の労働者が鉱山で命を落とすことになった。 このような悪質な死亡大事故は日常茶飯事であった。

 1942年の春、河北省から140人以上の労働者が連れてこられ、大きな樽の部屋に収容された。

  ガス中毒

  1943年初め、日本軍は山東省武定県から500人以上の労働者を連れてきたが、日本軍の蛮行で1年足らずで十数人しか残らなかった。 1941年の正月、河南省開封から連行された27人の労働者のうち20人を含む48人の死体が「長屋寮」から一度に引き揚げられた。

 重労働と非人道的な生活の結果、鉱夫たちは骨折、病気、障害などの拷問を受け、日本軍は労働者から利益を引き出せなくなったと判断すると、労働を次々と「隔離収容所」に送り込んだのである。



  「隔離収容所」は、実は「霊安室」だった。 労働者たちは、「隔離収容所に入った10人のうち9人は生き残れない」と怒った。 1943年になると、瀕死の日本軍は労働者をさらに残酷に扱うようになった。

  伝染病の予防を口実に、多くの病人や障害者を生きたまま大きな穴に埋めたり、煙の出る火の中に放り込んで焼き殺したりして、「焼畑」のような惨状を作り出した。

 日本軍や大閣長は、労働者の足や背中を折ったり、頭を叩き割ったり、袋に入れたり、轢き殺したり、拷問して殺すことがよくあった。 当初は、労働者が死んでも薄い棺桶に入れ、1つの穴に1つの棺桶で埋葬することができたが、その後、遺体はマットで巻かれるようになった。

 あまりに多くの労働者が死んだため、筵が与えられなくなり、ただ黄土で顔を覆い、遺体を一つの穴に埋めた。 数年後、北潴南山、成吉思汗、北陵に多くの万人坑(集団墓地)ができた。

台吉南山

  ここ数年、北廟南山、成吉思汗、太極南山、三宝窯などに広い面積の墓地が出現した。 日本軍は遺体を不毛の丘や渓谷に捨てるよう命じた。面積が広すぎて、冬に穴を掘るのは難しいからだ。 さらに労働者が死ぬと、日本人は金口、太吉、南山の自然の溝を利用し、溝の水位に木の板で壁を作り出口を断ち、巨大な深い穴を作って死体を埋めた。 そして、その死体の骨は、時が経つにつれて、「骸骨」と呼ばれるようになった。

 万人の竪穴

  万人坑。 北廟譚鉱山にはこのような坑道が5つあり、そのうち大きなものは成吉思汗の「万人坑」と呼ばれた。

  万人坑(集団墓地)は1,700平方メートルの面積で発掘され、6,500体以上の骨が出土した。 万人展示館を建設する際、60平方メートル足らずの大きな穴が掘られ、240体以上の骨が埋められた。 埋葬の方法は、4〜6人を木のカゴに逆さまに入れ、深さ1メートルの穴を2〜5層に分けて埋めた「人間蔵」型の骨である。

 その中には、頭蓋骨に穴を開けられたもの、下肢を骨折したもの、上肢を針金で縛られたもの、手かせをはめられたもの、腰を上げ頭を穴から出したもの、生き埋めにされて必死に這い出したと思われるものなどがあった。



 その骨は、1943年に日本軍の捕虜となり、息子とともに拷問を受けて死亡し、「万人坑」に投げ込まれた老婆の骨であることが判明した。

 息子が拷問で死に、「万人坑」に投げ込まれた時、老婦人は気を失い、同じく日本軍によって「万人坑」に投げ込まれたのである。 1943年の冬だけでも、700体以上の遺体が南山の「集団墓地」に投げ込まれた。

 記事は「侵略日記の残虐行為」から引用しています。
 キーワード:労働者、万人坑、日本軍、北崁炭坑



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