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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ
「南京安全区」
全37避難シェルター概要(2)

出典:反戦史レポート  2020年12月14日
1937年南京大屠杀安全区及安全区内暴行史

 来源: 抗战史记 2020-12-14


中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年11月3日
 

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II. 37の避難シェルターの完全リストとその概要

1.陸軍学校(アーミーカレッジ、陸軍大学) 難民シェルター

 1937年12月17日、南京安全区の国際委員会が運営する避難所には、3,500人の難民がいた。 27のグループに分かれており、それぞれにグループリーダーがいた。 難民の約1/3が自給自足で、2/3が国際委員会による給食を受けていた。 毎日10袋の米(1袋125kg)を難民に配布している。

  検査官は、避難所は「おおむね満足」であり、避難所のリーダーたちは秩序を保つ努力をしていたが、衛生施設はかなりの改善が必要であり、避難所の食事はお粥に変えるべきであるとした。

2.武器庫難民シェルター

 1937年12月31日、ミルズ、フォスターらがシェルターの視察に行ったとき、シェルターには約8,000人の難民がいて、そのうち3,000人は無銭飲食でお粥をもらい、2,400人は自炊で、ほとんどの難民は自分で料理をしていたという情報を得た。

 検査官は、避難所での未払いのお粥の分配が十分に公平でないこと、衛生状態が悪いこと、組織やリーダーシップを改善する必要があることを指摘した。 安全区のための国際委員会によると、そこにいる難民は「都市の中で最も貧しい人々」であり、この施設は「最も管理が難しい場所」であった。

3. ドイツ中国クラブ難民シェルター

 1937年12月17日には500人の難民がいたが、1937年12月31日にミルズやフォスターらが視察した際には、避難所に444人の難民がいて、毎日2袋の米が無料で配られていると聞いた。 検査官は、「このシェルターにいる難民は、食事も住居も十分にケアされている」と結論づけた。

4. クエーカー・ミッション・リフュジー・シェルター

 所長の張公生(所在地不明)は、南京安全区の国際委員会の協力と監督のもと、難民自身が組織したもので、ミルズやフォスターらが1938年1月1日に訪れた際には、避難所には800人の難民がいて、毎日2袋の米が無料で配られ、各家庭で自炊しているという情報を得ていた。

 ここでは日本兵によく略奪され、女性はよく強姦されていた。 検査官は、シェルターの衛生状態が衛生規則を満たしていないと結論づけた。

5. ハンコウ・ロード・プライマリー・スクール・リフレクシー・シェルター

 監督の鄭大成は、南京安全区の漢口路にあり、安全区国際委員会が運営していた。 1938年1月1日にミルズ、フォスターらが視察に行った際、避難所には1400人の難民がおり(それまでは1500人だった)、毎日4袋の米が配給され、各家庭で自炊しているという情報を得た。

 検査官は、避難民は指導者に満足しているが、避難民が運ぶ荷物が多いために避難所が混雑しており、避難民に清潔さに気を配るよう促さなければならないと結論づけた。

6. 金陵大学別館の難民シェルター

 1938年1月3日、ミルズ、フォスターらが視察に行った際には、「避難所には1万1,000人(それまでは1万5,000人)の難民がいて、40のグループに分かれ救急隊、検査隊、消防隊がいて、難民は全員登録されている」という情報を得ていた。

 毎日、貧しい人には10袋の米が無料で配られ、金持ちには2袋の米が売られる。 中央にはキッチンがあり、きれいに整頓されていた。 検査官は、「シェルターはよく組織され、よく指導されている」と評価した。

7. 難民シェルター55, 高家酒店(Gaojia Tavern)

 フォスターらが1938年1月3日に視察に行った際、避難所には770人の難民がいて、2つのグループに分かれて収容されていること、500人の難民に1日1袋程度の米が無料で配布されていることなどの情報を得た。 検査官は、「シェルターは適度に導かれており、場所は狭くて過密であり、衛生規則をよりよく守るべきである」とした。

8.軍用化学工場(軍用化学品店) 難民シェルター

 1937年12月17日には4,000人の難民がいたが、1938年1月3日にミルズやフォスターらが訪れた際には、シェルターには約2,800人の難民がいて、全員が登録されているとの情報を得た。

 避難所は、日本軍の特別な保護下にあった。というのも、一部の避難民は日本軍の司令部のために労働者として働きに行っていたからである。 避難所では1日6袋の米が配給カードで配られ、1人あたり12オンスの米が配給された。 検査官は、「シェルターはよく組織され、素晴らしい仕事をしていた」と評価している。

9.山西路小学校難民シェルター

 監督の王有恒は、南京安全区の北端に位置し、南京安全区国際委員会が運営していた。 ミルズ、フォスターらが1938年1月3日に避難所を訪れた際、避難所には約1,100人の難民がいて、1日3袋の米が全難民に無料で配布され、各家庭で自炊しているという情報を得た。 検査官は「避難所は過密で汚れている」「難民には薄味のご飯を食べさせるべきだ」と結論づけた。


(3)につづく

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