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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

「南京の血の証人」:ジョン・マギー、
日本軍による残虐行為を映像記録した

北京日報著者:人民日報網(中国語)
南京血证:约翰·马吉和他记录日军暴行的真实影片
2017-12-12

中国語・英語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月8日
 

犠牲者を病院に運んだ聖公会の車。

ジョン・マギー

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本文

 南京大虐殺犠牲者記念館には、16mmベルカメラが設置されている。 このカメラのレンズを通して撮影された日本の残虐行為の映像は、記念館で毎日巡回して流されている。 南京大虐殺の動画で唯一残っているのが、アメリカ人のジョン・マギー氏が撮影したものである。


写真右のジョン・マギー(John Magee)氏

 今からちょうど80年前、大虐殺を生き抜いたジョン・マギーは、南京の他の駐在員と同様に、難民を保護し、日本の残虐行為を文書で記録しただけでなく、命がけで105分の映像をカメラに静かに残した。

 マギーの映画フィルムは南京大虐殺の確固たる証拠であるが、一時はその所在が不明となり、日本では存在しない「幽霊映画」として悪者扱いされたこともあった。 ジョン・マギーの息子の家の地下室で再発見され、センセーションを巻き起こしたのは1990年代に入ってからである。

 2014年12月13日、第1回「南京大虐殺犠牲者のための国家儀礼式典」において、習近平総書記はスピーチの中でジョン・マギーに特別に言及した。 この国際的な友人の人道的精神と大胆な正義の行動は、中国の人々から決して忘れられることはない。

街の端にいる兵士たち

 1938年1月19日の朝、アメリカ人牧師のジョージ・フィッチは、南京から上海に向かう日本の軍用列車に乗り込んだ。 南京陥落以来、西洋人の出入りは極めて困難になっており、フィッチはわざわざ出てきたのである。

 馬車に乗ると、さらに緊張してきた。 日本兵に囲まれた馬車の中で、フィッチはキャメルヘアーのコートの裏地に、日本人に発見されてはならない8巻のフィルムを隠し持っていた。

 この旅での彼の最も重要な任務は、これらのフィルムを安全に南京から持ち出すことだった。 日記には「上海に入ったら、間違いなく私のバッグは入念にチェックされるだろう」と書いてある。 フィルムが見つかったらどうなるんだろう」。

 フィッチが神経を尖らせて録画した映画の内容とは?

 日本が占領した南京では、どのように撮影されたのであろうか。 それは、映画を撮った男、ジョン・G・マギーから始まった。

 当時のジョン・G・マギーは、南京の下関市怡江門外の大成教会で宣教師をしていた。 南京師範大学の歴史学准教授である閻海堅氏によると、マギーは1884年10月、米国ペンシルバニア州ピッツバーグの弁護士の家に生まれた。

 彼の一族は18世紀からピッツバーグで商売をしており、アメリカの下院議員、州議会議員、市長が一族から輩出されるなど、地元の政治やビジネスに影響力を持っている。 今でもピッツバーグには、マギーの名を冠した道路や図書館が残っている。

 1906年、マギーはイェール大学で学士号を取得した後、ケンブリッジの英国国教会神学大学院で神学修士号を取得し、1912年、28歳の時にアメリカのエピスコパル教の司祭として中国の南京に派遣された。 それ以来、南京に28年間滞在していた。

 南京に到着したマギーが最初にしたことは、中国人の教師を雇い、中国の言語と文化を学ぶことだった。 様々な方法で中国人とコミュニケーションが取れるようになったマギーは、布教用の建物として下関の豊毅里に3つの建物を借り、中国人牧師と共同で教育用の小学校を設立した。

 1918年、サバティカルで渡米したマギーは、故郷のピッツバーグで1万5,000ドルという大金を集めた。 この資金で下関に土地を購入し、5棟の建物と2棟のコテージを建て、ドーソンホールと呼ばれる新しい教会と学校の建物を建設した。 マギーが設立した学校は、現在の南京十二高等学校の前身である。 彼が資金を提供したこの建物は、南京十二高等学校の図書館となった。

 1920年代から1940年代にかけて南京に住み、働いていた欧米人駐在員の多くは、南京市民の一員であることを誇りに思っており、冒頭に登場した馬継や飛機が所属する「南京団」と冗談交じりに呼んでいたと、厳海さんは記者に語ってくれた。

 彼らは自分たちのことを冗談交じりに「南京ギャング」と呼んでおり、記事の冒頭に登場するMa JiとFei Qiもそのメンバーだ。 1921年7月、イギリス人宣教師のフェイス夫人と結婚し、4人の息子をもうけた。 この古典的で美しい都市に長年住んでいたマギーは、第二の故郷である南京に深い愛着を感じていた。

 しかし、その平穏な生活は戦争によって崩れ去り、1937年9月、彼は小さな家庭用ビデオカメラを手にして、初めて空襲下の南京にレンズを向けた。 1930年代の中国では、カメラは非常に珍しく、南京にいた西洋人でも、カメラを持っていて使いこなせる人はほとんどいなかった。 マギーのカメラは教会のもので、教会の礼拝などの儀式の撮影を担当していたため、そのまま使用することができた。

 彼がカメラを構えると、南京の街は廃墟と化し、煙が立ち上っている。 侵入してきた日本軍に対する中国軍の主戦場は、依然として上海であったが、南京はもはや安全ではなく、8月15日、日本軍は南京への空襲を開始したのである。

 日本侵略軍による南京大虐殺資料館」によると、1937年8月15日から10月15日の間に南京は65回攻撃され、日本軍の飛行機は517発の爆弾を投下し、392人が死亡、438人が負傷、1,949棟の家屋が損壊したという。

 11月初旬からは、上海の戦場が失われたことで、上海・南京線を通って南京下関駅まで退却する負傷兵が急増した。 国民党政府は、下関駅に負傷者のための受付センターを設置したが、負傷者をケアするための物資やスタッフは不十分だった。 この時、下関に長年住んでいて仕事をしていた馬路が、負傷した兵士を救出するチームに参加したのである。

 11月7日、南京教会は「南京基督教戦争救援委員会」を組織して、馬継を長とする「下関傷病兵接待部」を設置し、下関での中国傷病兵の接待、看護、移送などで国民政府を支援した。 数日後の11月12日には、揚州から南京に退避していた同じく英国国教会の宣教師アーネスト・フォスターが下関に到着し、チームに合流した。

 11月中旬から下旬にかけて戦争が近づくと、官公庁は南京に避難し始め、欧米人の多くは大陸や上海租界に移住するようになった。 駅には医療関係者が少なくなり、混雑していた下関駅は南京市全体と同じように、ますます苦しい状況に追い込まれていった。

 11月30日、マギーとフォスターは、アメリカ大使館のパクストン氏から「船で漢口に行きたいなら、今日が最後のチャンスだ」という警告を受けた。 下関は、南京の交通の要所であり、南京を出た避難民や退却する傷病兵が毎日のように後方へ移動する場所であった。 マギーやフォスターがその気になれば、戦争の雲行きが怪しくなってきた南京を脱出するチャンスはいくらでもあったが、彼らは踏みとどまった。

 12月3日、アメリカ大使館は、アメリカ人に南京からの退去を求める最終警告を発した。 マギーとフォスターは、「自力で避難する」、「USSパネーで避難する」、「街に残る」という3つの選択肢を迫られた。 彼らは最後の選択肢を選んだ。 実は、政府関係者が避難する前に、マギーたちは政府に引き渡し、政府から医療器具や医薬品の供給を受けており、負傷した兵士の看護を続けることは以前から決めていたのだ。

 フォスターは妻に宛てた手紙の中で、「中立地帯計画 ...... の円滑な実施に協力するためには、できるだけ多くの外国人がいるべきだと思っている。また、私たちが滞在することで、看護師や衛生士たちが誠実に職務を遂行することができるであろう」と書いている。

 12月12日の夜、マギーは妻に手紙を出した。傷病兵のための薬や食料を探したり、下関周辺の避難民を安全な場所に避難させたり、助けが必要な傷病兵を車で探して病院に連れて行ったりと、この数日間のいつもの忙しいスケジュールを記録しただけだった。

 手紙の最後にマギーは、「銃声が小さくなってきたので、中国兵の陣地が取られたか、武装解除されたのではないかと思います」と書いている。 明日はどうなるんだろう? わからない」と言っていった。

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