エントランスへはここをクリック    総合メニュー へ

日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

日本の戦犯谷寿夫は、銃殺されるときに
足が震えていたが、「100人斬男」の処刑人
としては冷静だった

出典:歴史論評匿名/ 百度 2021年11月14日

日本战犯谷寿夫,被枪决时双脚颤抖,
百人斩刽子手很平静


中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年11月19日
 

総合メニューへ

本文

 南京大虐殺は、中国への侵略戦争の中で日本が行った凶悪な犯罪である。 この大虐殺では、30万人以上の中国人が死亡し、無数の家族が迫害され、社会全体が死体だらけの苦しい状態になりましたが、現在までこの歴史的事件を認識していない日本人がいるのも事実である。

 中国には南京大虐殺の生存者が70人弱いるが、彼らは皆、日本が中国への侵略の歴史を認める日を待つために長生きしたいと願っている。 日本との戦争が終わり、日本の主犯格である谷津夫は南京市で国際裁判にかけられ、最終的には中国で銃殺刑に処されたが、その前に足が震え、心がトランス状態になっていた。 一方、百人斬り執行人は冷静だった。



I. 南京大虐殺

 1937年の廬溝橋事件以降、日本に対する抵抗戦争が本格化し、日本は中国に対して大規模な侵略活動を開始した。 この時期、中華民国の戦略的なミスにより、南京は日本軍に陥落してしまった。 南京陥落後、社会の生活や生産は大きく混乱し、多くの人々が南京から脱出する方法を模索した。



 当初、日本帝国の侵略者は南京を攻撃し、その後も周辺地域を無差別に爆撃したため、数え切れないほどの民間人が戦火にさらされて無惨な死を遂げ、その愛する人たちも家を失ってしまった。 この時、日本軍は総勢5万人の部隊を次々と投入し、交通の要所である南京を一瞬にして瓦礫のように破壊してしまった。

 日本軍が南京を占領して4日目、日本軍は中国人の男女を強制的に中山埠頭に連れて行き、両手をロープで後ろに縛って全く動けないようにした。日本軍は男性を整然と並べた後、レーザー銃で掃射し、一発の無慈悲な弾丸が彼らの尊い命を奪い、死後は他の空き地に送られて集団で生き埋めにされた。




II. 谷 寿夫は凶悪な犯罪を犯した。

 南京大虐殺の主犯格であり、その凶悪な行為は今もなお憎まれており、裁判まで自分の非を認めようとしなかった。谷は、日本の岡山県のごく普通の農民の家に生まれ、性格の良い学生として育ち、常にトップクラスの成績を収めていた。



 1937年、日本軍第6師団の中将を務めていた谷は、金山衛上陸作戦に参加する途中、南京を急襲し、これが南京事件の引き金となった。 南京での戦争指揮の際には、共産主義革命の拠点を爆撃で不当に破壊することを指示・容認し、自ら帝国軍団を率いてサーベルで女性を刺殺したり強姦した。

 また、複数の勢力と結託して共産党の反革命活動を鎮圧したため、多くの農民や労働者が正常かつ秩序ある形で革命に参加することができなかった。 さらに衝撃的だったのは、彼のそばにいた2人の兵士だった。彼らは、ブランデー1本を手に入れるために、中国の人々の命を賭けて、乱暴な殺し合いを始めようとしていた。



 ある南京大虐殺の生存者は、「日本兵に頭をひどく殴られ、片腕を切り落とされ、妻にセックスを強要された」と回想していた。忌まわしい日本兵は、何も知らない若い女の子でも容赦せず、ただ銃で持ち上げて火の中に放り込み、哀れな子供たちは生きたまま焼かれてしまった。




III. 国際裁判での谷 寿夫

 対日抵抗戦争の勝利後、国際軍事法廷は谷を重要な戦犯として分類し、東京の刑務所から南京に引き渡されて裁判を受けることになったが、裁判は1カ月近く続いた。 この法廷で中国政府は、具体的には日本軍が我が軍を機関銃で大量に撃ち、19万体以上の遺体を焼却したことなど、一連の虐殺行為についてグレフを起訴した。



 しかし、数え切れないほどの罪を前に、谷はそれらを否定した。法廷では常に「自分は何も悪いことをしていない、法で罰せられる筋合いはない」と思っていた。力強く、正義感に満ちているように見えた谷の反論は、中国人民政府に反論され、どのような証拠も、谷朔が日本の軍国主義政策である中国侵略の実行者であり決定者であることを十分に証明した。

 中国にずっと住んでいる日本人ジャーナリストは、12月10日以前の南京は、明るい光が降り注ぎ、あらゆるものが成長している美しい都市だったが、数日も経たないうちにこの世の地獄と化し、地面には死体や銃撃の残骸が散乱し、その恐怖は決して忘れられないと語っている。 その証拠を否定することはできず、彼は最終的に死刑判決を受けた。



 判決が下された直後、彼は南京の玉花台の処刑場に護送された。馬車が道を進んでいる間、顧守福の後を追い、止まったり倒れたりしたと言われている。 馬車から引きずり降ろされた谷寿夫は、あまりの恐怖に全身の力が抜け、足が震えて全く立ち上がれず、ジャンダルム(官憲)に最後の数メートルを引きずられて処刑場に行くところだったという。 谷寿夫の恐怖に比べ、死刑執行人はとても穏やかな表情をしていた。




IV. 家庭での反応

 谷寿夫の死後、国中が歓喜の渦に包まれ、その場にいた何千人もの観衆が拍手をした。その拍手から、中国の人々の心から重い石がようやく落ちたことが容易にわかった。 これに対し、中国人の中には「一発で殺されたのだから、罪を背負って消えたのだからいいじゃないか」という意見もあった。



 谷寿夫の処刑は、侵略者の前では決して屈服しない中国人民政府の正義の行動であった。 当時も、国内の新聞や雑誌には、「狂言殺人者である谷寿夫がようやく報いを受けた」というコメントが掲載されていた。確かに、神が許すことのできない罪を犯した人間は、遅かれ早かれ神の罰を受けるだけのことはある。




V. 対日戦争の啓示

 8月15日は中国の人々にとって忘れられない日である。70年以上前、中国の人々は全力で日本と戦い、10年にわたる戦いの後、日本は降伏して戦争の成功を宣言した。戦争は物と精神の戦いであり、中国の人々の前向きな精神が勝利を得るための重要な要因であったことは容易に理解できる。したがって、若い人たちは前向きな考え方で挑戦に臨んで欲しい。

 歴史は鏡であり、現在の中国は貧しい社会状況から抜け出し、高速前進の道を歩み始めて久しい。しかし、日本の侵略の歴史を忘れてはならず、後進は敗北につながるという真理を念頭に置き、常に冷静かつ強靭でなければならないのである。




Ⅵ. 結論

 対日抵抗戦争は、世界の第二次大戦の歴史の中で最も重要な部分であり、中華民族が国を守るために行った最大の戦争であった。中華民族の絶え間ない努力と闘争の後、ついに戦争の完全な勝利と解放を達成した。対日抵抗戦争の勝利は、中国の国際的地位と影響力を著しく向上させ、世界平和の維持を促進する上で重要な役割を果たした。

 南京大虐殺は、中国の人々に「後れを取ったら負け」「立ち上がらなければならない」という真実を思い出させ、後世の人々に勇気を与えた。


総合メニューへ