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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京「大虐殺」の6つの理由(3)
侵华日军为何在南京“屠城”?
 来源: 抵抗戦争の歴史
公開日: 2021-12-13

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月22日
 

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第二に、中国軍の英雄的な抵抗は、報復を受けた。

 これに対して、侵略される側、虐殺される側、すなわち中国の軍人と民間人の英雄的抵抗もまた、南京大虐殺、ひいては日本のあらゆる残虐行為が行われた根本的理由であった。

 当然、殺される側にも論理的な条件があり、全員がひざまずいて服従し、敵の奴隷になることを志願し、敵から牛馬のように扱われたのなら、たとえ敵が快楽殺人するほど獣的であったとしても、これほどの規模にはならなかったはずだ。

 南京国民軍、そして以前は華北とソンクーの国民軍の英雄的な抵抗があったからこそ、侵略してきた日本軍の軍国主義的な軍隊は、最も残忍な方法で獣性を発散させようと決意したのである。

 南京を攻撃した日本の華中戦線軍は、3カ月にわたる松湖での激戦で多大な犠牲を出し、「3月に中国を滅ぼす」という夢を打ち砕いたばかりだった。第6、16師団と国崎分隊も華北で苦戦し、新口での戦いはいったん膠着状態に陥った。

 中国軍の粘り強い抵抗と戦況は、侵略者側の当初の楽観的な予想を上回るものであった。 華北で戦った岡崎茂は、「大別山の戦いは、死者1人に対して負傷者が平均3人という激戦だった」と当時を振り返る。 その時、第38軍第2旅団(第16師団のこと-筆者注)は全滅して1000人が殺された......だから、中国人を殺すのは鶏よりも楽しかったんだ」と述べた。

 南京の守備隊は、日本軍がすでに福尾(英:Fuguo)陣地に到達していたため、松井石根の降伏の最後通告を断固拒否し、頑強な抵抗で応戦した。 このため、南京攻略の早期決着が期待されていた日本の侵略軍は挫折した。

 その後、城壁の攻略では、日本軍が中国軍と肉弾戦を繰り広げるという凄まじい展開になった。 日本軍の将兵は、「紫金山の戦いで中国兵が「最後の一人まで戦った」、中華門の攻撃は「凄惨な肉弾戦」、その光景は「地獄絵図」のようだと絶賛した。 」 

 日本軍は春華城、紫金山、玉花台、光華門、中華門、陽峰丘での戦いで大きな犠牲を払い、大きな被害を受けた。 日本兵の山本勇は、光華門の城壁での戦闘を「何度も両陣営の綱引きがあった」とし、「日章旗の旗を壁に掛けようと縄梯子を登ろうとした矢先に敵と喧嘩になったり、壁で敵から銃剣で摘まれたり、要するに本当にひどい戦闘だった」と述べている。

 「日本軍中支那戦線司令官・松井石根の日記には、「上海上陸以来、我が将兵は苛酷にして困難なる戦いに従事せり」とある。 これらの戦いは、将兵の間に敵に対する強い憎しみの感情を生んだ。一方、1938年2月に新たに南京地区の西部警備隊長に任命された天谷少将は、南京での日本軍の残虐行為を「長く緊張した戦闘と中国軍が遭遇した予想外の頑強な抵抗のため」だとした。

 日本空軍の猪手淳二曹長は、「40歳以下のヒゲの徴兵」が「○○兵の仇を討て!」と叫んでいるのを目撃したことがある。 私の力を味わってください」。 大刀を振り回し、中国人の捕虜を殺していた。

 同じく第16師団の機銃手、吉川敏邦さんは「下関に着いた時は夕方ではなく昼間だった」と中国人捕虜への憎しみを語る。 相手方は敗走し、下関は大混乱に陥っていた。 何百人もの囚人が集まっていた。 囚人を見ると敵意を持ち、「こんなに頑張ったのはお前のおかげだ」と思ってしまうのだ。 敗残兵には銃剣を突き刺した。 ライフル隊も参加し、同じように、我々が先に殺してしまった。 南京で殺すことに罪悪感はない」。

 他の日本兵は、中国人捕虜の虐殺を、兵士の「代役」を見つけて「復讐」するためと考えた。 南京攻略に参加した兵士の秋山元治は、「捕虜が並んで銃殺される場面は見たことがあった」と回想する。

 彼らは、戦死した多くの人々の「代わり」を探していると言って、5人を並べ、「仇を取る」といって殺した。 南京に残った日本陸軍の外国人教授は、この日本軍による捕虜の大量虐殺という非道な行為を厳しく非難した。

 その中で、「今、彼らは、不当であろうとなかろうと、軍隊に従軍したとみなした難民を虐殺しつつある」と書いている。 国際公法の下では、軍事目的に厳密に必要でない場合は、囚人の命は尊重されなければならない。 しかし、ここは国際法の字義を論じる場ではないし、日本兵もそんなことに興味はないだろう。 彼らは国際公法をとっくに後回しにして、今南京を占領している軍隊で倒れた仲間のために、復讐のためだと公言しているのです」。

 もちろん、松井や天谷が日本が行った残虐行為を正当化することに同意することはできない。 しかし、彼らが正当化のために明らかにした戦争の残酷な場面や日本軍の復讐心に満ちた精神は、信憑性があるはずである。

 中国や外国の歴史を見れば、侵略と抑圧があれば抵抗があり、抵抗があれば復讐があり、復讐は侵略と抑圧の継続であるという民族・階級闘争のパターンを容易に見いだすことができる。 古代ローマのスパルタキストの反乱とその敗北後の奴隷・捕虜の残虐な処刑、中国の明末・清初めの清朝との闘いと「揚州十日」「嘉定三大虐殺」などはその最たる例である。

 南京防衛における中国軍の勇敢さは、日本侵略軍の復讐心を煽り、今後の残虐行為をより一層残酷で狂気の沙汰にすることになった。 その意味で、南京戦の指揮と中国軍の英雄的抵抗が南京大虐殺の基本的な理由のひとつとなったわけだが、ここでいう「理由」は決して「正当化」とは違うことに注意しなければならない。 「原因」は起こったことの原因に過ぎず、出来事そのものの是非には影響しない。「理由」には、起こったことを合理的に肯定することが含まれている。 もし「原因」を「理由」と表現するならば、それは山賊の論理だろう。


極東国際軍事裁判における松井石根の裁判について


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