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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京「大虐殺」の6つの理由(4)
侵华日军为何在南京“屠城”?
 来源: 抵抗戦争の歴史
公開日: 2021-12-13

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月22日
 

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 第三に、首都の特別な地位が南京大虐殺の直接的な原因となったことである

 しかし、上記の二つの基本的な「理由」は、なぜ南京で虐殺が行われ、同じく軍国主義勢力に攻撃され、また英雄的に抵抗した平鎮や上海では行われなかったのかという疑問に答えてはいない。 そのためには、南京大虐殺の直接的な原因について、さらに議論を深める必要がある。

 南京大虐殺の直接の原因は、日本の侵略軍が中国の首都で「軍事力」を発揮して中国を「服従」させようとする政策にあった。

 南京は中国の首都であり、政治、経済、文化の重要な中心地であった。 南京防衛については、かつて蒋介石が「南京は孤立した都市で、上にも下にも国にも人民にも難しいから、守らずにはいられない」と言ったことがある。

 また、12月6日に南京を出発する前夜、南京を守備する部隊の師団長に対して、「南京は我が国の首都であり、孫文の墓(以下参照)があるところで、国際的威信をかけ、自国の民心に大きな影響を与えているので、守らなければならない」と力説している。 これらの蒋介石観は、首都としての南京が、他の都市とは異なり、戦争において特別に重要な位置を占めていたことを示す。 一方、日本軍は、首都の人々を大量に殺害することで、中国人の抵抗を止めさせようとしていた。

 ※注)孫文の墓(中山陵(ちゅうざんりょう))
  中山陵は中華人民共和国江蘇省南京市玄武区の
  紫金山に位置する孫中山(孫文)の陵墓。1926年か
  ら1929年にかけて建設された。牌坊、墓道、陵門、碑
  亭、祭堂と墓室、これらは縦に一直線上に並んでいる。
  全て花崗岩とコンクリート等を使い建築された。墓道
  の階段は392段(当時の中国の人口3億9千200万人に
  ちなむとされる)、高低差は73メートルある。ここを登り
  きると祭堂があり、祭堂の奥に墓室がある。そのほか
  「中山陵」周辺には「孫中山紀念館」「音楽台」「中山書
  院」などがあり「中山陵」を中心とした観光区を「中山陵
  景区」としている。中山陵の西隣には世界遺産である
  明孝陵がある。出典:Wikipedia
  
  中山陵 陵門 2004年5月1日撮影
  Source: WikimediaCommons, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 極東国際軍事裁判の判決文には、南京の重要性とこの問題に対する松井石根の人々の心理が絶対的に書かれている。松井は提督司令官に任命されて出征するとき、上海占領が予定されていた後、すでに南京に入ることを考えていたのである。 東京を発つ前に、上海派遣のために5個師団を要求した。 松井はすでに上海と南京周辺の地形を調査していたため、南京攻略のための実践的な準備を行った。1937年10月8日、松井は「征服の剣は今、鞘に納まり、その神通力を発揮しようとしている」という声明を発表した。 上海周辺の戦域を拡大するため、松井は華中派遣軍司令官に任命された。

 1937年10月末、武藤章は松井の参謀次長に任命された。 上海を占領した日本軍は、南京の郊外に到達した。 松井は、「南京は中国の首都であり、南京攻略は国際的な出来事であるから、日本の威信を高め、中国を服従させるために徹底した調査をしなければならない」という趣旨の命令を発した。

 中国側は日本の降伏勧告を無視して砲撃を開始し、1937年12月13日、ついに南京は陥落した。 南京に入った日本軍は新編成であったが、経験豊富な部隊で構成されており、1937年12月27日、松井は嬉々として南京に入った。 『南京大虐殺』と呼ばれるものは、12月23日以降に行われた」。

 アメリカの有名なジャーナリスト、デービッド・ベルガミーニが、その長年の著書で ベルガミニーは、著書『日帝の陰謀』の中で、「南京攻略は、蒋を政権から追い出すために東京の皇居の深い部屋で計画された」と暴露している。

 ベルガミーニも「南京ショアの恐ろしい展開は1937年8月15日に始まった」と断言している。 この日、上海派遣の司令官には松井石峰が任命された。 お世辞でも「南京を占領して蒋介石政権を倒す以外に道はない」と鴻池首相に言い放ち、待ちきれなくなった。 これが私の果たすべき使命である」。 数日後、松井は見送りに来た東京駅で杉山陸相に、「中国を懲らしめる特命は、何としても南京を攻撃して国民政府を屈服させることである」と告げた。

 日本の海軍大将たちも、日中戦争における南京の特別な地位をよく理解していた。 日本第3艦隊司令官長谷川潔は、9月19日の「通達」で、「日本海軍航空隊は、南京が中国軍の主要活動拠点であることを考慮し、中国軍の敵対行為を排除し、現在の敵対状態を早期に終了させるために、南京の戦場において、日本海軍航空隊は、中国軍を撃退するために、次のことを行う」と述べている。

 「中国軍の敵対行為を一掃し、現在の敵対状況を早期に終結させるため、日本海軍航空隊は1937年9月21日正午以降、中国軍および南京周辺における中国軍の軍事活動および活動に属するすべての建物に対して砲撃その他の措置を講ずる」。 日本軍の飛行機は、首都の南京を爆撃したとき、最も野蛮で暴力的であることが証明された。 不完全な統計によると、南京陥落までに日本軍の飛行機は1000回以上出撃し、南京を無差別に爆撃している。

 戦後、中国国防部の戦犯裁判軍事法廷は、戦犯谷寿夫に対する判決で、「日本の軍閥は、わが首都を抵抗の中心として、松井石根上級大将の指揮のもとに、精鋭で猛々しい谷寿夫の第6師団、中島の第16師団、丹生島隊、馬松隊などの部隊を集め、連合して首都に攻め込んだ」と断定している。

 11月22日、松井石根を司令官とする日本の華中戦線軍は、参謀本部に「事件解決のためには首都南京の攻略が最大の価値である」と電報で通達した。 そして、この目的を「利用可能な戦力で最大の犠牲を払って」達成することを明言した。

 日本侵略軍が南京攻略に高い価値を置いていることに鑑み、松井石根は12月9日、中国軍に「降伏勧告書」の配布を命じ、「南京は中国の旧都、中華民国の首都」と宣言し、「日本軍を 日本軍は抵抗する者に厳しく対処し、決して許さない」。

 日中戦争を通じて、日本軍が中国軍に都市下の同盟を結ばせようとすることは、南京を除いてはまれであった。 日本の侵略者の目には、南京は明らかに特別な地位と重要性を持つ都市であり、中国政府を強制し、中国軍と市民の抵抗を止めるためには、南京を迅速に占領し、完全に征服することが最大の望みであったのだ。

 南京陥落後、日本軍の虐殺の惨状を目の当たりにしたアメリカのジャーナリスト、F・ティルマン・デューディンも、日本軍の南京侵攻は良くないと見ていた。 南京陥落後、日本軍による南京大虐殺を目撃したアメリカ人ジャーナリストのデュディンは、日本侵略軍のこの意図も見抜いていた。

  「大量の略奪、女性の強姦、民間人の虐殺、中国人を家から追い出す、捕虜の虐殺、屈強な男たちの強制重労働などの残虐行為で、南京は恐怖の街となった」と、12月17日にニューヨークタイムズに送られた電報で述べている。 日本人は、日本軍に抵抗するとひどい目に遭うことを中国人に思い知らせるために、この恐怖を生かしたかったようです」。

 南京攻撃に参加した日本兵の中にも、南京の特別な地位が彼らの虐殺残虐行為に果たした役割について、後の回想で語っている者がいる。 「旧第16師団第38歩兵団の兵士であった岡崎茂氏は、「当時は南京と戦えば日本は戦争を終わらせることができると考えていました」と語っている。」

 「 南京では、5人の男の首をはねました。 ハエを殺すような感覚だった。 首の前の皮膚を切りっぱなしにするのがコツだった。 腕を胸の上で組んで座らせたので、頭を切り落とされた男たちは前に倒れました。」 また、元第16師団第33飛行隊の沢田幸次郎は、「南京攻略はちょっとやりすぎだった。 抗日基地と言われていたので、家屋をすべて焼き払えという命令が出ていた。 その後、後続部隊が駐屯する場所がないから、家を焼くのをやめろと言われた。 とにかく、家を全部燃やして、人を全部殺せという命令が出たんです。」

 一国の資本の喪失が戦争の勝敗を決するとは限らないが、資本の放棄は、やはり、心理的、精神的、実際的に並々ならぬ影響を与え、資本の喪失によって一国が滅亡した例も少なくないのである。 特に、占領者側は一般に、相手国の首都を占領し、その力をこうして誇示したいという異常な欲望と願望を持っている。 したがって、侵略戦争の延長として、設定された目標を達成するために、あらゆる残忍で野蛮な方法を用いて、中国軍と国民にさらなる「軍事力の宣伝」を行い、「恐怖」を与え、南京占領の「価値」を高めたことは理解できる。 侵略戦争の延長として、設定された目標を達成するために、残忍で野蛮な方法が使われたことを理解するのは難しいことではない。

 ここでは、南京が首都であるという特別な政治的地位が、同じく勇敢に抵抗した他の都市ではなく、南京で大虐殺が行われた主な理由となっている。




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