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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京「大虐殺」の6つの理由(6)
侵华日军为何在南京“屠城”?
 来源: 抵抗戦争の歴史
公開日: 2021-12-13

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月22日
 

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 もちろん、このような兵士と民間人を区別する方法自体が科学的ではない、というより侵略者が暴力を振るうための口実であり、同時に「兵士」と指定された中国人が、無実の民間人であれ武器を捨てた兵士であれ、恣意的に殺害することは国際公法に違反するものであった。

 このような背景から、「私服兵」の疑いで多くの若者が逮捕され、殺害された。 実際には、兵士の身元確認が行われず、若者であれば誰でも逮捕され、殺されることが多かった。

 12月27日、夫の鄧栄貴さんを虐殺で亡くした引退した女性、鄧明霞さんはこう振り返る。 彼女は、「12月27日午前9時頃、日本兵が難民地区に押し入り、3丁の機関銃を難民全員に向け、若者や中年男性を全員つかまえて一人ずつ縄で縛り、大方路の池まで連れて行き、機関銃を撃ちました」と回想している。 この時、何百人もの人が殺され、池は真っ赤に染まった。 避難所全体が涙に包まれ、老人は息子を、女性は夫を、子どもは父親を思って泣いていました。」

 南京が陥落した時、雲南路301号に住んでいた李春芳という女性は、大方路近くの空き地で300人以上の難民がいわゆる視察、虐殺されるのを目撃している。 日本軍は3回逮捕し、4回縛り、300人以上の難民を大方峡と二丈峡の間の空き地に追いやり、難民の手にタコがあるかどうかを調べたこともありました」と語っている。

 このように「私服兵」の捜索を口実に、罪のない市民を虐殺したことは、一部の日本兵の日記や記憶にも残されている。 日本人ジャーナリストの元田勝敏氏は、著書「南京大虐殺の取材」の中で、山本五郎という二等兵の戦時中の日記を引用している。

 日記には、避難所で500人以上の「私服兵」の虐殺に参加したことが記されている。 12月14日の日記には、「午前8時30分、飛行隊は編隊を組んで避難所に入った」と書いている。 兵士の残党は、ほとんどが軍服も武器も捨てて私服で、数百人の避難民に混じっていた。 我々と中国将校が一つ一つ調べていくと、中隊長クラスの将校を含む500人ほどの敗残兵らしき人たちが疑わしく思えてきた。 一隊で虐殺を行うのは困難なので、第一機関銃隊から重機関銃2挺を借り、軽機関銃6挺と隊員の小銃をすべて集め、残兵を城壁の向こう側の丘の端に持っていき、軽機・重機の掃射で皆殺しにした」。


田甫李「部外者が見た日本の残虐行為

 旧日本軍第16師団第33歩兵団の小田利吉は、「当時は、兵士と善良な市民の区別がつかなかったので、いわゆる『怪しい奴は皆殺し』というのは、まさに上からの指示だった・・・・・・」と、その後を振り返っている。 怪しいやつら」は見分け方がわからないから、集中砲火を浴びた。 撃たれてもすぐに倒れ、当たったのか当たってないのかわからない」。

 その後の「善良なる市民の登録」では、日本人の意図的な欺瞞によって、元兵士も非兵士も多くの若い難民が「降伏」したとして処刑されたのである。 天保黎氏は著書『外国人が目撃した日本の残虐行為』の中で、事件を目撃した外国人からの手紙を引用し、「登録手続きは金陵大学で始まった」と述べている。

 「日本軍は、中国兵が名乗り出て降伏すれば、命を助け、重労働の罰を与えると脅した。 240人ほどが自首したが、全員束ねられて連れて行かれた。 2、3人は怪我をして死んだふりをしていたので、逃げ出して病院に治療に来た。 一団は機銃掃射され、もう一団は日本軍の銃剣術の標的にされた」という。

 善良市民登録部隊」に所属していた日本兵の岡本謙三は、「南京占領後、誰が善良市民で、誰が私服部隊なのか見分けがつかなくなった」と戦後に明かしている。 そこで、日本軍は「善良な市民カード」を発行した。 私が所属していた部隊では、毎日、生年月日、性別、職業などの記入を求め、登録を行っていました。 しかし、字を書ける中国人はほとんどおらず、書けない人に指示を出しても、はっきり話さないので、はっきり話せる人はラッキー、どもりながらはっきり話さない人は怪しいと思われ、保留にされた。

 「私服兵」と疑われた若い健常者の難民は、誰かが保証するか、中国兵でないことを証明すれば、時折釈放された。 朝日新聞の特派員であった足立和夫は、自分の体験ともう一人のジャーナリストである森山良夫の体験について記事を書いた。

 朝日新聞の南京支局の隣には、火事の後にできた広場があった」と書いている。 そこでは、日本兵に見守られながら、中国人の長い列ができた。 南京に残った中国人は、ほとんどすべて「私服組」と呼ばれる者に逮捕された。 そのうちの1人が、事件前に朝日支社と関係があったことをパートナーが証明し、その結果、彼の命を救うことができたのです。 それ以来、朝日支局には女性や子どもたちが助けを求めにやってくるようになった。 しかし、私たちにできることは何もなかった。 妻や子、孫の泣き声の中で、私服組が一人ずつ撃たれて死んでいった」。

 難民に紛れた中国兵を日本軍が厳しく調査し、保証人になって解放するという同様のケースは、金陵女子学院の難民施設でも起こったことである。 ここの責任者であるミニー・ヴォートリンさんも、中国人のアシスタントである程瑞芳さんも、このことを日記に記録している。 程瑞芳は日記に「12月16日の午後、別の兵士が来て、少年の兄を連れてきて、彼は兵士で、少し似ていると言い、二回とも華(魏徳齢さんのこと)が彼を保釈したと言った」と書いた。

 日本兵が捕まえたがっているのは、髪の長い人たちだと聞いていたのだ。 日本兵がそのような人間をより有益(過酷)に見ていることを知らず、髪を剃るのは脱走兵だと考え、これらの労働者は悔いるのが遅すぎた」という。

 一方、ミニー・ヴォートリンさんは、12月16日の日記にこう書いている。「2度ほど、日本兵が私たち労働者を『兵士だ』と言って突き飛ばし、連れて行こうとしたことがありました。 しかし、私は「彼らは兵士ではない、重労働者だ」と言った。 そうして初めて、彼らは銃殺や刺殺から逃れることができたのだ」。 また、別の取材では、「確かに彼ら(日本兵のこと)は、兵士のように髪を切った数人の労働者を連行しようとしたが、結局、身元が確認され解放された」とも語っている。

 主な記述では、南京に取り残された大量の中国兵が民間人に潜入し、深刻な事態を招いたことが明確に示されている。 これは日本軍に難民を恣意的に逮捕、殺害する口実を与え、残虐行為を拡大させ、避けられたはずの大虐殺の一部を誘発、助長させた。 これが、首都・南京で起こった大虐殺が、なぜあれほどまでに大規模なものになりえたのか、その間接的な理由というか、沈殿した理由である。


南京大虐殺の犯人、朝香宮肇彦王


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