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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京「大虐殺」の6つの理由(8)
侵华日军为何在南京“屠城”?
 来源: 抵抗戦争の歴史
公開日: 2021-12-13

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月22日
 

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 日本の歴史学者である秦郁彦は、『南京事件』の中で、南京攻略前後の侵略日本軍による捕虜の虐殺について、本畑勝一と同じような主張をしている。 彼は、「第一線部隊は捕虜と一緒に戦うことはできず、捕虜を受け入れる施設もなく、監視のために用意する食料もなかった」と論じている。

 抑留の要請があってもそれが受け入れられなければ、実行するか解放するしかない」。 「捕虜となった部隊が上層部に問い合わせると、ほぼ例外なく処刑という答えが返ってきた」。 日本軍が上海から南京に進攻する際、「一人残らず殺せ」という命令が出された。 確かにこの文書は見た。

 『共産主義の横暴は許せない、共産主義の匪賊を潰すために農民だけでなく女や子供も殺さなければならない』と、陸軍特殊カメラマンの河野弘毅の証言にある。

 日本の軍部は、この虐殺命令を共産党や共産主義との戦いと意図的に結びつけることで、本当は中国の兵士や民間人を虐殺するための口実を作ろうとしていただけだったのだ。

 入手した情報によると、日本軍は、中国中部戦線司令官松井石根とその指揮下の師団、旅団、集団、下士官に至るまで、南京の捕虜や兵士と確認できない市民を虐殺する命令を出していたという。

 松井石根は、自ら捕虜の「懲罰と矯正」、つまり虐殺を命じたのである。 華中戦線の専属副官であった加倉晴少佐(後に上級大佐に昇任)の回想によれば、1937 年 12 月 18 日、第 6 師団の情報部員から戦線本部に対して、「下関で捕獲した 12 万、3 万の中国人難民はどうするか」との電話による報告があり、その際、「下関で捕獲した中国人をどうするか」とい う質問があったという。

  「全員殺せ」という師団の情報将校、丹永代中佐の単純な命令を覚郎は聞いた。 桜崎はこの問題を重要視し、松井石根に報告した。 松井は長安から「避難民の中に兵士がいる」ことを知ると、「混成部隊はすべて『懲罰と清算』(=虐殺)せよ」と命じたのである。

  「また、長与参謀は同僚の田中大佐に、通州事件で日本軍が頑強に抵抗したため、報復として南京付近の中国人捕虜を皆殺しにするよう命じたと語っている(通州事件)。 長与は田中に対して、「事変の当初は、通州での日本人殺害の復讐をする時が来たと喜んでいた。 私は直ちに、私の指揮下にあるすべての部隊に、これらの捕虜をすべて殺害せよという命令を勝手に出したのだ この命令を無線で伝えるのに、軍司令官の名前を使った。 命令の全文はすぐに焼却された。 この命令の結果、大虐殺が始まった。 しかし、その中には逃亡者もおり、全員が殺されたとは言い切れない。 通州での大虐殺の復讐ができただけでなく、亡くなった罪のない人々の魂を慰めることができたと思っています」。

 松井石根の幕僚であった長与中佐は、戦線総司令部の名で捕虜や市民の虐殺の密命を発しただけでなく、自ら虐殺の現場に行って命令の実行を指示し、厳しく監督している。 長安の友人であった藤田勇は、長友の生々しい描写をもとに次のように語っている。日本軍に囲まれた南京の一角から、女子供もまじえた大衆が津波のように揚子江の岸辺に向かって逃げ惑うのである。 逃げる集団の中には多くの中国兵が混じっており、このまま中国兵を逃がしてしまっては、今後の戦いに不利になる。 そこでロング中佐は、機関銃を構えた兵士たちに「戦え!」と号令をかけた。 中国兵も混じっていたが、逃げているのはほとんど市民なので、兵隊は発砲をためらった」。 すると、長中佐は「人を殺すなんて、そんな簡単なことではないのか!」と怒り出した。 「と言いながら、サーベルで兵士の肩の質問から斜めに斬りつけた。 それに驚いた他の兵士が一斉に機関銃の引き金を引き、大量殺戮を行った。

 松井石根の後任として上海派遣の司令官となった皇叔の朝香宮初彦王とその派遣本部も、捕虜の虐殺を直接命令していた。 朝香宮は12月2日に上海派遣の指揮官に任命され、5日に東京を飛び立ち、3日後に南京郊外の戦場に到着した。 多数の中国軍が包囲され、降伏すると聞くと、「機密、読了、破棄」と書かれた一連の命令に署名・捺印し、その内容は「捕虜をすべて殺害せよ」という単純なものであった。

 12月13日以降、南京は陥落していた。 日本軍第13師団第103旅団第65旅団は、武隆山、幕府山一帯で中国兵14,777人を捕虜にした。 この囚人たちをどうするか? 上海派遣軍は、東京参謀本部や陸軍省に何度も相談したが、その都度曖昧な返事だった。 そして、軍隊は虐殺を決定し、実行を命じた。 第60飛行隊随行記者の話によると、陸軍司令部は中央政府(参謀本部、陸軍省のこと)に何度も指示を仰ぎ、最初は「よく計画せよ」という訓示の電報を打ったそうだ。

 「この命令は非常に不明瞭で、囚人の扱い方については何も書かれていなかった。 何度もお願いした結果、「勉強して対処してください!」というメッセージもいただきました。 "どうやったら研究できるのか? 陸軍司令部はこれを難色を示し、3度目の指示を仰いだが、「陸軍司令部で処理しろ!」と命令された。 「軍司令部は、中央委員会の態度が温かいと感じた。 陸軍司令部は朝香宮中将の入営式が迫っていることを非常に危惧しており、「殺す」という結論に至ったのである。

 第103旅団長山田梅次は、12月15日の日記に「本間騎兵少尉を南京に派遣し、捕虜の処分等について連絡する」と記している。 命令では、捕虜はすべて殺されることになっていた。 どの部隊も食糧不足で大変困っている」。

 第65飛行隊第8戦隊の遠藤高嶺少佐は、12月16日の日記に「軍司令部の命令により、夕刻より捕虜の1/3を河原に護送し、Iにより射殺」と記している。 日本人ジャーナリストの本多勝一氏は、この年のこの捕虜集団の虐殺に参加した第65飛行隊の伍長に取材した結果、「捕虜は上官の『処分』命令に従って17日の入営式の日に清算された」ことをレポートで確認している。

 軍に随行したもう一人の朝日新聞特派員、今井正芳も、上記の背景とほぼ同時期に虐殺があったことを明らかにしている。 朝香宮は入宮式にも馬が出るので、誰かが石を投げたり、銃を撃ったりしたら大変だった」と証言している。 すべての「掃除」を行うのは当然である。 このいわゆる掃討作戦は大虐殺であった」。 また、12月14日に東部の泉岳寺門付近で約1万人の捕虜を捕獲した日本軍第16師団第30旅団は、派遣軍司令部に報告後「射殺せよ」と命令された。

 師団や旅団の司令官も、松井石根、朝香宮ら前線軍司令官や陸軍司令官の命令で、捕虜や民間人の虐殺を命じた。

 第16師団第30旅団第38飛行隊副長の児玉義雄は、南京郊外の師団司令部から電話で「中国軍将兵が降伏すれば、受け入れて処分(虐殺)してよい」という師団命令を伝えていた。 児玉は、「部隊は驚きましたが、この命令で難を逃れ、旅団に渡されました。その後、旅団が戦火の中でどのように報告したかは想像に難くありません」と述べている。


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