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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京「大虐殺」の6つの理由(9)
侵华日军为何在南京“屠城”?
 来源: 抵抗戦争の歴史
公開日: 2021-12-13

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月22日
 

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 第16師団長の中島今雄吾は、師団の虐殺命令の実行を自らの「戦場からの日記」で詳細に明かしている。 12月13日の日記には、「2月1日、基本的に捕虜を出さない完全殲滅の方針が決定された」と書いている。 しかし、千人、五千人、一万人の集団であったため、武装解除も間に合わず・・・・・・。

 「二、三、七千人、八千人と言われる人を始末するためには、大きな塹壕が必要だが、なかなか見つからない。 1〜200人の小集団に分けられ、埋葬のために適切な場所に案内されるものと思われる」。

 第16師団参謀の中沢大佐は、中島の捕虜虐殺の命令に従い、部隊に同様の命令を下した。 師団副官宮本鹿郎は、12月13日の捕虜殺戮をこう回想している。紫金山攻略後、師団前線の主戦闘が終了し、全体として攻撃態勢を整えたのである。 午後3時、後方から歩兵の軍曹がやってきて、敵の兵力が1万人であることを報告し、緊急の援軍を要請した。 ......保健隊の武装兵まで全部隊で出かけたが、まもなく後方から「敵の全師団を捕虜にした」と再び命令が来た。 参謀本部が指示を仰ぐと、その場で後方参謀に「捕虜は皆殺しだ!」と言った。

 日本軍の第13師団と第3師団の軍事文書にも、同じような虐殺の順序が反映されている。 第13師団は戦闘の詳細な報告の中で、「捕虜の数が多く、射殺は困難なので武装を解除すること」、「適宜処分すること」という指示を記録している。 この場合の「処分」は「虐殺」を意味する。 第3師団長の藤田晋は、「藤田部隊報告補足」の中で、「それ以来、捕虜は ここでいう「重大な処置」とは、「虐殺」という意味もある。

旅団レベルの虐殺命令の代表例として、第114師団第127旅団による捕虜の虐殺がある。 第66旅団第1旅団戦闘詳報では、旅団本部が命じた大虐殺と旅団によるその実行が詳細に報告されています。 主なポイントは以下の通りである。

 A. 旅団本部の命令により、捕虜は全員殺害された。 その側では、10人単位で撮影することができた。
.......

 午後3時30分、各隊が召集され、捕虜の処理について意見を交換し、協議の結果、捕虜を50人ずつ各隊(第1、第3、第4隊)に等分し、第1隊をビバーク南谷、第3隊をビバーク南西窪、第4隊をビバーク南谷付近(東)にして大収容所から出し、これらの捕虜を暗殺していくこととされた。

 牢屋の周りには厳重な警備を施し、囚人が外に出るときには、決してそのことを悟られないように注意しなければならない。 部隊は午後5時までに準備すること。 暗殺は午後5時に始まり、午後7時30分に終了する予定である。

 第16師団第30旅団からも同様に捕虜を取るなという命令が出された。 第38航空団は12月14日、旅団本部から「全部隊は師団の指示があるまで捕虜を受け入れてはならない」という命令を受けた。 一方では武器を捨てた中国兵を大量に抱え、他方では捕虜を受け入れることは許されない。 その当然の帰結として、捕虜を戦闘可能な相手に変身させないために、当然ながら破壊することになった。

 虐殺の命令は、部隊、旅団、戦隊の基本的な将校に至るまで出された。 日本軍第16師団第9歩兵集団の兵士だった福田肇雄は、「南京近辺で、『老人や子供は何が何でも殺せ』という命令があった」と回想している。 周囲に人がいると、必ず撃った」。 同師団歩兵第33班のベテラン、坂井武郎さんは「南京の平和門に着いた時、門が閉まっていたので野砲で砲撃し続け、抵抗が止むと縄梯子を登った」と、准将の殺害命令を深く記憶している。

 中にいた敗残兵が次々と手を挙げて出てくると、准将は「殺せ」と手を振り下ろした。 命令なので、全員が刺殺を行いました」。 捕虜の処分は師団から命じられた」と、同じく33期兵の西芳夫は振り返る。 実際に我々兵士に「捕虜を皆殺しにしろ」と命令したのは中隊長である。 何人殺されたのか、正確にはわからない。 1日1隊で50〜60人の兵士を始末するのが普通です」。

 朝日新聞社支局近くの広場で市民1、200人が虐殺されるのを目撃した陸軍記者今井正勝氏は、虐殺の指揮官に「命令だ、逃げ場はない」と迫ると、やめるように言われたという。

 1938 年 1 月 15 日付けの外務省への内部報告で、南京のドイツ大使館政務官ローゼンは、1 月 9 日の朝、我々が再到着する数時間前に、クレゲル氏とハーツ氏(オーストリア人)が大使館の真近で次のように武士道の実践を見た、と書いている:大使館の左側、英国異邦人賠償委員会の敷地内。 大使館の左側、英国異邦人賠償委員会の席といわゆる「バイエルン広場」の間に、一部が凍った小さな池がある。 池の中には、腰まで水をかぶった老人が立っている。 池の前にライフル銃を持った日本兵が2人いて、後ろに立っていた将校の命令で、その人が倒れるまで発砲した。 その遺体は今日も水に浮かんでいる。

 ローゼン長官は別の報告書で、「軍隊は常に将校の反映である」と正鵠を射ている。 政治的な殺人で有名な青年将校隊が、その所属に南京で起きたことに劣らないことを要求している」。

 日本軍の将校や兵士は、虐殺の罪が目に余るものであることを知っていた。 耳を塞ぎ、虐殺を行うたびに「襟章をはずし」「階級肩章だけをつけ」、所属部隊のマークもつけず、どの部隊に所属しているのかわからないようにした。

 戦場記者今井正勝は、虐殺現場の処刑人を訪ねたが、どの部隊の者かは分からなかった。 この点だけでも、南京大虐殺が日本軍による完全に計画された犯罪行為であったことは明らかである。 作家の森山公威は、南京大虐殺に関する日本軍兵士や将校の証言をまとめた中で、「日本軍が南京市内とその周辺のいたるところで、無抵抗の中国人を分遣隊や部隊で虐殺したことは確かである」と指摘している。 しかも、この虐殺は、高い地位にある指揮官の命令で組織的に行われたものである。 これは紛れもない事実です」。

 日本兵が虐殺を命じられるという現象は、中国に「服従」を強いるという日本当局の確立した政策と、各レベルの軍当局が下した虐殺命令の本質を明確に示しているのである。 南京大虐殺は単なる偶然ではなく、日本侵略者による長期にわたる計画的、計画的、犯罪的残虐行為であったことは、事実が証明している。


日本人初の南京大虐殺の真相を暴いたジャーナリスト - 本多勝一


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