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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京「大虐殺」の6つの理由(11)
侵华日军为何在南京“屠城”?
 来源: 抵抗戦争の歴史
公開日: 2021-12-13

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月22日
 

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6つの理由(11)

 南京を攻撃した部隊は、ちょうど松湖の激戦を経験していた。 すでに「このままいけば、今年中に除隊できるかもしれない」と妻に手紙で報告した兵士もいる。 今年の正月は家族で火を囲んで団欒できそうです」。 しかし、すぐに再び南京を攻撃せよとの命令が下された。

 この時の兵士たちの不満や気持ちは、「我々の行軍の目的は、上海の日本人を守ることではないことが分かった。 上海の派遣団は、なぜまだ南京に攻めなければならなかったのだろうか。」 「簡単に妻の元に帰れると思ったのに、危ない橋を渡らなければならなくなった」」

 「 上官は、兵士の命をまるで消耗品のように扱い、日本に帰るために白木の壺(灰)に入れなければならないかのように扱った」。 そのような精神状態に陥った兵士は、内なる絶望や怒りを発散するために、あらゆる粗野で野蛮な手段に訴える。

 最も都合の良い標的は、侵略された中国の兵士と民間人であった。 元陸軍航空隊将校の猪手淳二は、中国人の捕虜を残酷に虐殺する退役軍人たちを見て、「昼夜を問わず激しく戦い、多くの仲間を失った彼らの憎悪と獣性は、おそらく理解できると感じ始め、その退役軍人たちに同情さえ覚える」と回想している。」.

 侵略戦争は、戦った兵士たちを、狂わせ、ヒステリックにした。 旧第16師団歩兵第20飛行隊の東四郎上等兵は、南京攻略の戦況を「目の前にはバーサーカーの怒りの巨大地獄が広がっていた」と記している。 弾丸は死の歌を歌い、男たちはサディスティックな咆哮とともに地獄の踊りを踊った。

 私たちは『うぉー、うぉー、うぉー!』でした。 ヒステリックに吠え、出血するほど私たちの喉を引っ張った。 もはや人間ではなく、猛獣と化したのだ」。 このような狂気のパフォーマンスを目の当たりにした元陸軍記者・小又幸夫は「戦時中は狂気の時代と言える」と嘆いている。 日本人にとって、自国民が行った蛮行を記録することは気が滅入ることだった。

 そんな蛮行を止めることもできず、かといって報道することもできず(しても罰せられる)、それでも「帝国陸軍の勇猛さ」を書かなければならなかったのだ。 日本軍第16師団第9歩兵団に所属していた福田肇男氏も同じ思いである。 当時の南京での民間人虐殺の残虐さを思い起こすと、「人々は意気軒昂で、狂気の沙汰に陥っていた。 誰も戦争に行きたがらなかったが、行けと言われても行かざるを得なかった」。

 狂気の状態にある兵士は、世の中のあらゆる想像を絶する悪事を働くことができるのです。 戦争の残酷さと絶望に狂い、一瞬の勝利に酔い、狂うこともある。 元日本軍第3師団歩兵第34飛行隊分隊長の曽根和夫は、12月14日、南京郊外の将軍塚付近で血まみれの殺戮と犯罪者の集団レイプの現場を目撃した。

 彼は、昨日この地域を通過した日本軍は、まず男性と老女を殺し、次に若くて美しい女性を選んで殺し、その若くて美しい女性を輪姦した後、また全員を殺したのではないかと推測している。 曽根一雄は、後に「なぜ、このような複雑な方法で虐殺を行うのか」と書いている。

 ターゲットが若い女性であることは明らかだった。 「血生臭い戦場に慣れた者にとっても、実に残酷な光景であった。 戦争に夢中になっている軍隊は、そのような残酷で非情なことをするときに勝利の感覚を味わうのです。 この軍も南京攻略の潮時には正気を失っていた」。

 曽根一雄も、生きた標的を使って殺す訓練を受けた兵士は、虐殺の中で平常心を完全に失っていたと考えている。「戦闘の回数が増えるにつれ、平常心はどんどん薄れ、殺すことが名誉であるだけでなく、言いようのない喜びが生じることに気がついたのだ。 」

 つまり、侵略戦争の巻き返しが、何千人もの兵士の性格とメンタリティーを変えてしまったのである。 後に佐藤信介というペンネームで出版された南京攻撃に参加したある兵士は、「戦争は人間を自分の損得だけを考える人間に変えてしまう」と述べている。 戦場での血みどろの昼と夜、いわゆる自制心や生い立ちが一気に失われた。 目つきが怖い人は、乱暴な言葉や行動をするようになった」。

 また、日本軍の急速な進攻と食糧の補給が追いつかないという問題にも注目する必要がある。 日本軍中支那戦線司令官松井石根と南京地区西警備隊長天谷直次郎は、食糧や物資の不足を「理由」として、日本軍の「軍紀の悪さ」と南京大虐殺の残虐行為を正当化していたのである。

 松井は、「追撃の激しさと速さのため、我が部隊は食糧などの補給が十分でなかった」と、規律の悪さを説明した。 一方、天谷は「略奪と残虐行為は、長く緊迫した戦闘と中国軍の予想外の頑強な抵抗があったからこそ起こったものであることに留意すべきである」と主張した。

 急速な進攻で食糧が不足し、軍隊の疲弊で訓練が不十分だった」。 松井らは、日本軍の略奪や残虐行為を食料の供給不足が原因としているが、これは明らかにナンセンスであり、下心もある。 すでに述べたように、南京大虐殺の残虐行為は、日本軍国主義の悪質な拡大の産物であり、中国人民の頑強な抵抗に対する犯罪的報復であり、日本軍当局の計画的、計画的な結果であった。

  しかし、客観的な分析によれば、南京攻略の際、日本軍は確かに食糧の供給が追いつかなかったと認めるべきだろう。 また、この現実は、部隊の動きや精神状態に複雑さを与えていた。

 日本軍第13師団第103旅団長の山田サンディは、12月15日の戦場日誌で、「部隊は食料もなく、困難な状況であった」と書いている。 捕虜になった将兵から将監坂に食料があることを聞き、それを運びに行った。 囚人たちの食事にはかなり問題があった」。

 軍隊は一日たりとも食料を欠かすことはできない。 この「徴発」は、南京の各部隊を襲った日本兵にとって、忘れられない思い出となった。 日本軍第16師団歩兵第33集団の兵士、酒井武郎は、南京攻略を回想して、「草食が足りないので、農家の家に米などをもらいに行った」と語っている。 2~3日は自分たちで消費していた。 また、食材も全くありませんでした。 農家の家まで行って塩を徴発する方法もなく、これが一番良かった。 それから、豚や鶏を盗んできて塩で焼くと、11月、12月のとても寒い時期に、脂がのって雪のように白くなり、かなり美味しく食べられました。 兵士は常に賢くなり、私たちは徴兵制で生活していたのです」。 旧第16師団第20飛行隊の東四郎二等兵も、12月8日の日記に「日暮れ時、後方へ食糧の調達を命じられた。 米一粒も惜しまず、村中の家々をくまなく探しました」。

 日本軍によるその場での食料の「徴発」は、焼却、殺害、強姦、略奪という残虐行為と直接的、間接的に結びついていた。

 第二に、穀物や塩の略奪により、日本の戦闘部隊と中国の民間人との接触が増え、中国人女性を獣姦に利用する機会が増え、大量の強姦が発生したことである。 食料を略奪し、女性を強姦する過程で、従わない者を殺し、火を放つ。これは、従わない者を罰するためであり、「勝者」の欲望を発散させるためでもあった。

 日本の学者である笠原が言うように、日本軍がその場で食糧を集めること自体が「中国人から食糧を奪うこと」であり、「食糧や資材を奪うことは、他の残忍な行為につながりやすく、その一つが人を殺すこと......」であった。 ......第二は強姦と強姦殺人......第三は放火」。

 食料の「徴発」は命令として下され、日本軍の残虐な略奪行為を正当化するものであった。 略奪の中で、日本軍の精神状態も変化していった。 略奪という原初的な行為の罪悪感は消えた。 このギャップが開くと、すべての残虐行為に対する罪悪感が消えた。

 これは、旧日本軍第3師団歩兵第34飛行隊の曽根一雄が戦後の回想録で明らかにし、分析しているものである。 南京を攻撃する部隊は、上海付近を出発して5、6日経つと、軍港の部隊からどんどん離れていく」と書いている。 この時点で、戦闘に不可欠な弾薬の供給だけは達成できたが、食糧の面では前線の戦闘員の手に供給することは不可能であった。 いくら闘志が強くても、腹が減っては動けぬ。

.....不退転の精神を誇る日本軍戦闘部長は、戦闘部隊を休ませることなく、自分たちの生存のために現地で食料を調達するよう命令を下した。 食料を集めろという命令は、一見合理的に聞こえるが、実際は現地の住民から食料を奪っているのと何ら変わりはないのだ。


本稿はこれで了   総合メニューへ