エントランスへはここをクリック   

日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京大虐殺 7
 原題:南京大屠
来源: 百度百科

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月31日
 

総合メニューへ

南京大虐殺 7

南京大虐殺1  南京大虐殺2  南京大虐殺3  南京大虐殺4  南京大虐殺5
南京大虐殺6  南京大虐殺7  南京大虐殺8  南京大虐殺9  南京大虐殺10
南京大虐殺11 南京大虐殺12  南京大虐殺13

主な記録:南京大虐殺史料集、海外における南京大虐殺史料集

・ジョン・ラーベの日記、 
本稿の南京安全区を参照
・ミニー・ヴォートリンの日記、 
本稿の南京安全区を参照
・kジョン・マギーの16mm映画クリック、
写真集  本稿の南京安全区を参照
・鄭瑞芳の日記、
・ベデスの声明、
・東史朗の日記、
・高島一郎の日記、
・小原孝太郎の日記、
・日本軍の南京侵攻の目撃者[42]。
・松岡環、『南京戦記』
・駒田幸雄、「閉ざされた記憶を求めて」、
  「あるジャーナリストの南京大虐殺の記録」(著).。
・南京を攻撃した日本侵攻軍第16師団長・中島今朝吾の日記、
・第十三師団山田支隊兵士の陣中日記など、多くの陣中日記、
・朝日新聞記者・本多勝一の『中国への旅』[43-44]など。
中国戦線、ある日本人兵士の日記(福岡弁護士会)


出典:小野 賢二 (編集), 藤原 彰 (編集), 本多 勝一 (編集)

 以下は主に南京線に行った日本兵の陣中日記である。
 出典は偕行社『南京戦史資料集』1 所収

・飯沼守日記    (上海派遣軍参謀長・陸軍少将) 昭12.8.15〜13.3.15
・中島今朝吾日記  (第16師団長・陸軍中将) 昭12.12.1〜13.1.25
・佐々木到一少将私記(歩兵第30旅団長・陸軍少将) 昭12.12.9〜13.1.22
・山崎正男日記   (第10軍参謀・歩兵少佐) 昭12.12.5〜12.18
・木佐木久日記   (第16師団後方参謀・歩兵少佐) 昭12.12.1〜13.1.30
・伊佐一男日記   (歩兵第7連隊長・歩兵大佐) 昭12.11.29〜12.31
・折小野末太郎日記 (歩兵第23連隊第3中隊長<第1大隊長代理>・歩兵大尉) 
             昭12.12.9〜13.1.5
・折田護日記    (歩兵第23連隊第2大隊砲小隊長・歩兵少尉) 
             昭 12.12.13〜12.12.18
・前田吉彦少尉日記<抜粋>(歩兵第45連隊第7中隊・小隊長) 昭12.12.10〜12.20
・井家又一日記   (歩兵第7連隊第2中隊・上等兵) 昭12.12.9〜12.25
・初年兵の手記「硝煙の合間にて」(歩兵第7連隊第一歩兵砲小隊N・Y一等兵)
             昭12.12.8〜12.26
・水谷荘日記「戦塵」 (歩兵第7連隊第1中隊・一等兵) 昭12.12.13〜12.25
・牧原信夫日記   (歩兵第20連隊第3機関銃中隊・上等兵) 昭12.12.10〜12.31
・林正明日記   (歩兵第20連隊第3中隊第1小隊第4分隊・伍長) 
             昭12.12.10〜13.1.24
・増田六助手記  (歩兵第20連隊第4中隊第2小隊第3分隊長・伍長) 
             昭12.12.13〜12.14
・海軍軍医大佐泰山弘道著 上海戦従軍日誌 巻ノ九、十 昭12.12.13〜12.19

 以下の出典は偕行社『南京戦史資料集』2 所収。

・松井石根大将陣中日記 昭12.8.15〜13.2.28
・陸軍大将畑俊六日誌<要約>  →
   続・現代史資料4『陸軍 畑俊六日誌』(みすず書房 1983)刊行
・上村利道日記  (上海派遣軍参謀副長・歩兵大佐) 昭12.8.15〜13.2.15
・山田栴二日記  (歩兵第103旅団長・陸軍少将) 昭12.9.9〜12.31
・両角業作日記  (歩兵第65連隊長・歩兵大佐) 昭12.12.12〜12.31
・荒海清衛日記  (歩兵第65連隊第1大隊本部・上等兵) 昭12.11.21〜12.31
・大寺隆日記   (歩兵第65連隊第7中隊・上等兵) 昭12.11.21〜12.25
・菅原茂俊日記  (歩兵第36連隊乙副官・歩兵少尉) 昭12.9.10〜12.24
・歩兵第36連隊第12中隊「陣中日誌」 昭12.12.8〜12.18
・福元続日記   (歩兵第45連隊第11中隊・上等兵) 昭12.12.10〜12.23
・歩兵第45連隊第2中隊「陣中日誌」 昭12.12.10〜12.22
・歩兵第47連隊第2中隊「陣中日誌」 昭12.12.10〜12.26
・戦車第1中隊行動記録(概要) 昭12.12.6〜12.18
・梶谷健郎日記   (第2碇泊場司令部・騎兵少佐) 昭12.11.5〜12.31

 以下の出典は藤井忠俊『兵たちの戦争 手記・日記・体験記を読み解く』
   朝日選書665、2000
 
・梅田房雄『北支転戦記・梅田房雄従軍日記』
・上原要三郎『輜重兵秘日記』
・朝香進一『初年兵日記』鵬和出版 1982
・田島正雄『孫たちへのメッセージ・日支事変従軍日誌』
・木村源左衛門『日中戦争出征日記』無明舎出版 1982
・寺坂孝夫『支那事変従軍日記』
・鈴木英夫『戦陣秘帖―若き軍医の見た日中戦争』湘東文庫 1982
•石田末三『日中戦争従軍日記』
・村田和志郎『日中戦争日記』
・平瀬柳太郎『中国大陸に散った農民兵士の記録―平瀬柳太郎の陣中日誌』
・平出一源『遠山部隊従軍日記』
・太田慶一『太田伍長の陣中手記』岩波書店 1940
・衛藤忠臣『想い出の陣中日記―戦場の中の自分史』
・湯口富造『麦の海を泳ぐ兵隊―一兵士の陣中日記』
・小林誠『山西の山河』
・古川隆久ほか編『第百一師団長日誌―伊東政喜中将の日中戦争』
     中央公論社 2007
・中村常賢『陣中日誌』刀水書房 2007
・小津安二郎「陣中日誌」『諸君』2005年1月号 
   →のち、田中眞澄『小津安二郎と戦争』みすず書房 2005 に所収
・小野賢二・本多勝一・藤原彰編
    『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田
    支隊兵士の陣中日記』大月書店 1996
・山田定『憲兵日記』駿河台書房 1985
・平木貞夫『支那事変陣中日記―ありし日の一兵卒の追憶』1983
・川村益雄『漢水・宜昌作戦日記』1978
・梶村止『大陸を戦う―観測小隊長の日記』1979
・小長井鑑重著・小長井信昌編著『オ父サンノセンサウ 
    小長井少佐日中戦争陣中日誌』西田書店 2006
・•小原孝太郎『日中戦争従軍日記―一輜兵の戦場体験』法律文化社 1989

 以下は新聞記者らの記録

・マンチェスター・ヘラルド紙の英国人特派員、田伯麗
 1930年代、中国のマンチェスター・ヘラルド紙の英国人特派員、田伯麗は、1938年初めに「部外者が目撃した日本の残虐行為」と題した本を書き、日本の南京大虐殺の真実を初めて発表し、日本が「近代史における前例のない残虐行為の記録」を作ったことを糾弾した。

・東京日日新聞
 1937年12月13日、東京日日新聞は、日本の「片桐部隊」の2人の将校、向井敏明と野田毅[73]が、南京の紫金山周辺で殺し合いをしていると報じた。

・ニューヨーク・タイムズ紙のティー・デターディング記者
 1937年12月18日、ニューヨーク・タイムズ紙のティー・デターディング記者による南京からの第一報「南京攻略のための大虐殺 -捕虜はすべて殺された(Massacre Means Capture of Nanking - All Captives Killed)」は、日本が「大量の略奪、女性への暴力、民間人の殺害、中国民間人の家からの立ち退き、捕虜の大量処刑、強制徴用などを行い、南京を恐怖の都市に変えた」と非難し日本人が行った残虐行為が公にされた。[45]

・上海の英字新聞
 1937年12月28日、上海の英字新聞は、南京での日本人虐殺について、「罪のない住民の死体が通りに散乱している。 川沿いの街の入り口には、1メートルほどの高さの死体が山のように積まれていた。 車や大型車が死体の上を行ったり来たりしていた」。

・新華日報
 新華日報は1938年1月から5月にかけて、南京大虐殺に関するレポートを10回以上掲載したが、その中の3月9日付の「日本軍の南京侵攻」というタイトルのレポートでは、南京での日本軍の殺戮、焼却、強姦、略奪などの蛮行を体系的に暴露している。この報告書は1943年10月1日に発表された。

・週刊芙蓉画報
 1943年10月1日、『週刊芙蓉画報』は、侵略してきた日本軍が南京で行った残虐行為についての記事を掲載した。日本軍は安全区で若年層を「敗残兵」として強制排除した。日本軍は、若年層を「分断された兵士」として安全区から強制的に引き抜いた[47] 。


日本軍は、若年層を「分断された兵士」として安全区から強制的に引き抜いた[47] 。

・メモ・目撃証言等
 日本軍の残虐行為を通報・阻止し、中国人を助けた南京のアメリカ人民間人やその他の欧米人は、膨大な量のメモを取り、一部の中国人の目撃証言を集め、1939年に延慶大学の徐修喜教授が『南京安全区アーカイブス』としてまとめて出版した。

・書簡等・
 安全区委員会と日本大使館・領事館、疑似南京自治委員会などのメンバーとの間で交わされた書簡、アメリカ、ドイツ、イギリスの外交官に日本との交渉への協力を要請した安全区国際委員会の報告書、安全区委員会が管理する難民収容所の状況に関するメモ、1937年12月15日から1938年2月7日までの間に南京安全区とその周辺地域で行われた日本の残虐行為の事例444件など、残虐行為の69ケース。の文書が収録されている。


被害者の証言

 妊娠7ヶ月だった李秀英は、3人の日本兵との戦いで37回刺され、南京市の鼓楼病院に入院しビデオ映像を残していた。 また、彼女は日本への請求のために日本に行き、裁判中に亡くなった。

 9人家族で7人も殺された夏淑琴さんは、刺された後、死体の山から這い出してきた。

 蒋玄福(1929年12月20日~)は、兄は日本兵に落とされ、母は強姦に抵抗したため射殺され、父は連れ去られ、次姉は強姦に抵抗したためナイフ(銃剣、刀)で殺された。

 崔金貴氏は、慈善団体「崇信通」による遺体の収集と埋葬の過程を目撃し、埋葬の際に崇信通が遺体を数えていたことを立証した。

 尚德义(Shang Deyi)は、1937年12月6日午前11時に日本軍に捕らえられ、1000人以上の中国人男性とともに機銃掃射され、その大半が即死した。 死体に挟まれて気絶していたため、一命を取り留めた。

 呉正熙は、南京の新花巷62番地に避難している間に、次兄の呉正宝、第一従兄の雲関、第三従兄の三雲、従兄の王老が捕らえられ、射殺された。 彼の祖父は刺殺され、30歳のいとこの母親は強姦された。 シャオ・ハンジェン(Xiao Hanzheng)、父シャオ・ジンチン(Xiao Jingqing)、祖父シャオ・カイチャオ(Shao Cai Chao.)、叔父レン・ファエ(伦华)は日本軍に射殺された。

 南京を守る兵隊、黄福是勝。 日本軍に捕らえられ、板橋町の谷間で数百人の部下と一緒に機関銃で一斉に撃たれた。 日本軍は生存者を銃殺し、さらに銃剣で殺した。 彼と重傷を負ったもう一人の被害者が唯一の生存者だった。

 溝に入って水を汲んでいた孟賢梅は、日本軍が複数のトラックを使って民間人を漢中門新橋交差点の下まで護送し、機銃掃射されて死んでいくのを目撃した。

 陳光秀は、南京市唐山鎮徐香村で、父親が射殺され、弟を含む村の若者100人以上が銃剣で撃たれて死亡した。 藍家の4人の兄弟は、空に向かって投げられ、落下して死んだ。 多くの女性が強姦されました。 母親は、父と兄を殺されたことによる鬱病で亡くなった。

 劉文静氏は大方丈広場での虐殺(100人以上)の目撃者である。

 天津工商銀行の退職者で、当時、南京の商店で見習いとして働いていた南京大虐殺の生存者である劉忠明氏は、「日本兵が街に入ってきて、目の前で皆殺しにされ、街は死体だらけになり、日本兵を乗せた車が死体の上を走っていった。 あの悲惨な光景は忘れられない。


南京大虐殺8につづく