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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京大虐殺 10
 原題:南京大屠杀
来源: 百度百科

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月31日
 

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南京大虐殺 9

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真犯人たち

 朝香初彦王は天皇陛下の「皇室の叔父」であり、南京大虐殺の真犯人である。 宮城朝香三兄弟は、1926年12月にヒロヒトが即位する以前から、ヒロヒトが組織する過激派閥の後ろ盾となっていた。

 長兄の東久邇宮はロンドンに、次兄の北白川と朝香宮はパリに拠点を置き、日本の軍国主義的拡大に対する英仏の反応を定期的にヒロヒトに報告していた。 1936年2月26日、戦争好きの朝香宮は、天皇陛下にクーデター将校の恩赦を訴え、天皇陛下から「危機の時には不適切」と判断され、皇室から外された。

 1937年12月1日、日本軍は南京への攻撃を開始した。 この時、上海派遣隊長の松井石根は結核の発作に見舞われ、寝たきりで軍務を司ることができなかった。 5日、南京の前線司令部に到着した彼は、すぐに第10軍司令官柳川平助と第16師団長中島今朝吾の報告を聞き、特に最初の接触と交渉の後、中国軍が降伏の意思を持たないことを話すと、部下に一刻も早く南京を攻略するように命じたのである。

 12日の南京陥落の直前、朝香宮は実印で署名した一連の命令書を発行した。すべて「機密-読破」と記されているが、その内容は「囚人はすべて殺せ!」という単純明快なものだった。 朝香宮からの明確な命令により、日本軍は南京で殺戮を繰り返した。

 中島今朝吾の部下は、武隆山と幕府山の砦付近で14,777人の中国兵を捕らえ、その全員が非人道的に「処分」された。

 日本のジャーナリストが計算した数字だが、極東国際軍事裁判では57,400人以上と裁定された。この数字には、一般教導隊などの約18,000人の捕虜のほかにも 南京などの捕虜だけでなく、脱出してきた4万人ほどの民間人も将軍坂の南西部に集まっていた。 その後、柳川平助ら日本軍の9個師団は、各地でも大虐殺を始めた。 また、朝香宮は中島を南京警視庁の司令官に任命し、市内で大規模な虐殺を行った。

 1946年2月、中国国防省の戦犯法廷(南京軍事法廷)は、証拠に基づいて、虐殺された人数は30万人であると判断し、谷寿夫を含む直接関与した4人に死刑を宣告した。

 1948年、極東軍事法廷は、当時確認できた証拠に基づいて、虐殺された人数は20万人を下らないと判断し、「日本軍による南京市の占領」などと判決した。 占領から6週間の間に南京周辺で殺された民間人と囚人の総数は20万人を超えたと考えられている」。 その結果、松井石根だけでなく、当時の日本の外務大臣であった広田弘毅も責任を問われ、死刑判決を受けた。

 日本の著名な学者である藤原亜紀氏や小野健二氏の研究では、虐殺された人数は15~20万人とされており、南京大虐殺は、朝香宮の命令で1937年12月の大虐殺から1938年2月の小集団虐殺まで3ヶ月間続いた。

 中国の南京軍事法廷の調査によると、日本軍による28回の大量殺戮で合計19万人が死亡し、858回の小規模で散発的な虐殺で15万人が死亡したということである。

  この歴史上最も残酷で血なまぐさい大虐殺は、すべて南京大虐殺の真犯人であり、
主犯格である朝香宮の命令によるものであった。 しかも、朝香宮が捕虜の虐殺を指示しただけでなく、「殺人、大量殺人、強姦、放火、略奪など444件の事件が朝香宮と関係があると証明された」ことが後の資料で確認されている。

 
結果的には、ヒロヒトは南京大虐殺に反対ではなく、逆に南京大虐殺に参加した日本軍の上級将兵を賞賛していた。

 1980年代後半、日本の右翼や一部の官僚は、南京大虐殺の存在を否定し、日本の対中犯罪を捏造するという逆流を始めた。2007年12月8日、日本の新聞「産経新聞」の一面記事は、「大虐殺は蒋介石のフィクション」とまで言っている。

 国際社会は、悲惨な南京大虐殺の証拠を絶えず追加し、責任を追及してきた。 しかし、第二次世界大戦を起こした天皇陛下と皇族の罪、特に中国への侵略戦争と南京大虐殺を起こした罪については、無視される傾向にあった。 中国は南京大虐殺に関する歴史資料の収集をやめず、2005年に江蘇省人民出版社が『南京大虐殺歴史資料集』28巻を出版し、2007年12月には29巻から55巻まで、約3000万語の歴史資料を出版した。

 
第二次世界大戦と中国侵攻におけるヒロヒトの役割は、日本の右翼が言い訳するような「受動的」なものではなく、日本の三軍の最高司令官であった。 戦時中、軍の重要な会議には必ず出席し、次々と命令を出していたことは、数え切れないほどの厳然たる事実が証明している。

 
1937年8月15日、自ら松井石根を皇居に呼び寄せ、上海派遣団の司令長官に任命した。 松井石根が西へ西へと軍を率いて南京に入ってくると、「裕仁は皇居に最高司令部を設置し、すべての重要な戦場を監視していた。 このコマンドは、政治家はもちろん、総理大臣でさえも除外されていた」。[57]

 
また、軍の動きに対する統制をさらに強めるために、ヒロヒトは松井に代わって朝香宮を上海派遣の司令官として速やかに送り込んだ。 ヒロヒトは南京大虐殺のことをよく知っており、1938年1月には従兄弟でドイツ駐在員の国谷公世が南京を訪れ、帰国してヒロヒトに悲惨な状況を報告したが、ヒロヒトは無関心だった。

 弟の三笠宮上人が南京での日本軍の残虐行為を直々に報告しても、彼は介入せず、止めなかった。


 1938年2月12日、朝香宮が職務を再開するために帰国した際、ヒロヒトは皇居に朝香宮を迎え、大虐殺の「戦績」を称え、感謝の印として皇室の菊の紋章が刻まれた一対の銀製の花瓶を贈り、朝香宮の「戦績」を皇籍に復帰させた。

 彼は「戦功」により皇室に復帰した。 また、「功労者」として少将に昇格した。 それに先立ち、宮城朝香が兵を率いて南京を攻略したことを聞いた裕仁は、叔父でもある日本軍本陣参謀の鯉之宮親王に、宮城朝香の南京での行動を喜んでいることを話していた。

 それに伴い、甲斐宮は朝香宮に「この戦いは注目すべきものであり、前例のないものであった」との祝辞を送っている。 2月26日、ヒロヒトは南京大虐殺の犯人である松井石根と柳川平助を迎え、南京攻略の功績を称えるとともに、それぞれに王家の菊の紋章が入った一対の銀瓶を贈った。

 
日本が降伏した後、裕仁はまず、裁判を避けるために軍の要職を任されていた皇族を外し、マッカーサーと会談し、最終的にアメリカ政府から「天皇と皇族は裁判にかけない」という約束を取り付けた。 南京大虐殺の第一の実行犯である朝香宮は、死刑を免れ、ゴルフ三昧の日々を送り、1981年4月12日に94歳で亡くなった。

 
※注)朝香宮
  第二次世界大戦終盤においては、終始強硬な主戦論者
  として本土決戦に備えた陸海軍統合(統帥一元化)を主張・
  力説していた。南京陥落(1937年12月13日)当時、松井石
  根に先立って南京に司令官として入っていた。



南京大虐殺11につづく