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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

侵略日本軍の息子が南京を訪れ、
南京大虐殺の生存者に直接謝罪
侵华日军之子赴南京谢罪,
向南京大屠杀 幸存者当面致歉

出典: 出典:Punch News/人民日報 2018年8月13日

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月12日
 


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本文

 日本の無条件降伏宣言から73周年を迎える前夜(2018年8月15日)、侵略してきた日本軍の子孫が南京に来て、南京大虐殺の犠牲者に直接謝罪した。

 8月11日午前、日本の平和友好団体である九州・沖縄平和教育研究所は、福井県坂上市議会議員の山本敏夫氏を日本侵略軍による南京大虐殺犠牲者記念館に招き、「南京大虐殺の歴史的真実と記憶」をテーマに交流会を開催した。

 イベントでは、山本氏が南京大虐殺の生存者と対談し、大虐殺の悲惨な真実を語り、戦争犠牲者に謝罪し、日中両国の平和と友好の重要性を人々に呼びかけた。


夏淑琴さん

 また、交流会には、南京大虐殺の生存者である夏淑琴さんが自らの体験をライブで語ったほか、交流トークに参加した日本の友人や中国の学者も参加した。



 特筆すべきは、山本武の父である山本武は、1934年に入隊して旧日本軍の第36境川飛行隊に編入され、1937年に上海の戦場に派遣された侵略日本兵であったということである。

  上海陥落後、山本武は部隊とともに南京に赴き、南京大虐殺に参加しました。 シンポジウムでは、山本敏夫氏と兄の山本富士夫氏が、中国侵略時代を生きた遺族として名乗り出て、南京大虐殺の真実を語ったことがリセウムのレポートに記されている。



 山本敏夫さんは、父から戦時中の殺傷事件の話を聞いていたこと、日記を公開してほしいという父の願いがあったことを説明した。 多くの日本の右翼が彼と兄に抗議の電話をかけてきたが、彼は戦争を繰り返さないためには、世界に向けて戦争の歴史的事実を説明する必要があると考えている。 彼は、日本は加害者の立場で戦争を反省し、その残酷さを伝えるべきだと考えていた。 彼が歴史の真実を語ることは、平和を守り、戦争を止めるという重責を担うことである。

 パンチニュースの調査によると、山本敏夫氏は実際に南京大虐殺の真実を伝えるために、過去に何度も中国を訪れていた。

 2017年7月、新華社は、山本敏夫さんの体験を記録したニュースレター「拷問された父の戦争記憶をたどる-侵略日本兵の息子が広島で南京大虐殺を語る」を発行した。 前述の新華社通信によると、山本剛史は戦時中、南京大虐殺をはじめとする侵略日本軍の犯罪や、農民から殺人鬼となった自身の内面を7巻の日記に綴っていたと紹介されている。

 戦後、武は戦争の生き残りとして日本に戻ってきたが、中国人を虐待して殺した戦争の記憶は今でも彼を悩ませている。 後世の人々が再び戦争に巻き込まれることのないように、山本武は65歳の時に戦時中の日記を本の原稿にまとめた『兵隊さんの記録、私の36枚目の坂上を書く』。

 山本武が亡くなった後、山本敏夫は兄と協力して父の日記を自費出版し、中国との戦争の歴史をより多くの人に知ってもらいたいと考えた。 山本武の日記には、日本軍による南京での捕虜虐待など様々な犯罪が記録されている。

 日本軍が南京を占領する2日前に書かれた日記には、「8人の捕虜が捕らえられ、相良君の墓碑に連れてこられ、土本君と私の二人で刺して刺して刺し続け、一瞬にして8つの死体になった ......」と書かれている。

  「日記の中には、「拷問」「残虐な殺し」「斬首」といったグロテスクな言葉がふんだんに登場する。

 日本軍が南京を占領した後、山本武は自分の部隊が関与した虐殺について直接語ってはいないが、日記で見聞きしたことは虐殺に関する他の史料と一致している。

  例えば、「今朝、下関に集結して揚子江に沿って退却した数万の敵軍が、機関銃や大砲、あるいは戦車や装甲車によって虐殺され、白旗を掲げて降伏した者もすべて虐殺されたと聞いた」と日記に書いている。

 指揮官の松井上級大将は遺体の即時処理を命じ、「第6師団は毎日のように遺体を焼却したり、揚子江に投棄した。」

 この日記では、松井元帥のことを「松井重源」と呼んでいる。戦後、極東国際軍事裁判で絞首刑の判決を受けたA級戦犯で、主に部下による非人道的な南京大虐殺を容認したことによる。


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