エントランスへはここをクリック    総合メニュー へ

日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

悲劇の南京大虐殺裁判の
裏話を思い出す(1)
追忆南京大屠杀惨案审判背后故事
出典:新華社(Xinhua) 2016年12月13日

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年1月6日
 

 裁判の歴史的事実を直視し、平和な未来を創るために悲惨な南京大虐殺の裁判の裏話を思い出す  

総合メニュー へ

(1)  (2)

本文

 12月13日は「国家南京大虐殺犠牲者記念日」である。

 1937年12月13日、日本の中国侵略は、中国・南京での同胞の虐殺に始まり、40日以上も続き、南京大虐殺という中国内外に衝撃を与えた悲劇を生んだ。

  これは、人類の文明史におけるファシズムの残虐行為である。 この残虐行為は、国際法に違反していることが、歴史的、法的な結論によって証明されている。

 南京大虐殺の犠牲者および日本帝国主義による中国への侵略戦の中で日本の侵略者によって殺害されたすべての人々を追悼し、日本の侵略者の戦争犯罪を暴露し、侵略戦争が中国人民と世界の人々にもたらした深い災難を思い起こし、侵略戦争に反対し、人間の尊厳を守り、世界の平和を守るという中国人民の確固たる立場を表明するために、第12期全国人民代表大会常務委員会は第7回会議で、12月13日を「国家南京大虐殺犠牲者祈念日」とすることを決定した。

 昔から日本には、侵略の歴史を蒸し返し、第二次世界大戦のA級戦犯に功績を与え、日本の軍国主義に対する国際社会の正当な裁判に異議を唱え、第二次世界大戦の結果や戦後の国際秩序に異議を唱えようとする勢力が常に存在していた。

 中国の人々、そして世界の人々はこれを許さないであろう。 前に起こったことを忘れなければ、後に起こったことからも学ぶことができる。 今日、私たちは、歴史を記憶し、そこから学び、未来を見つめ、歴史的な悲劇を繰り返さないために、全国的な追悼式典を行っている。

 江蘇省南京市の中山東路307番地にある江蘇省会議センターでは、毎日のように重要な会議が行われており、参加者や来訪者の多くは、共和国の宮殿風の建物(旧総統府)のいくつかに感銘を受け、足を止めて写真を撮ることもある。

 その中の一つである黄埔会館は、1947年に日本の戦犯を裁くために国民政府が設置した裁判法廷「立志会」の講堂であったことから、南京裁判の重要な証人として特別な歴史的意味を持ち、歴史学・法学界からの注目度が高まっている。

 「私は復讐心を持つ人間ではありませんが、過去の苦しみを忘れることは、将来の災いにつながると考えています。」  かつて東京の極東国際軍事裁判の梅如意判事が発したこの言葉は、日本のA級戦犯の裁判を終えた法学部教授の思索を物語っている。

 「京劇では「帝王の剣は使う前に使わなければならない」とよく言われる 」と梅汝煥(ムイ・ユ・フーン)が言っていたことはあまり知られていない。 法治国家となった現在では、殺す前に試してみることが必要である。

 ※注)梅 汝璈(ムイ・ユ・フーン、ばい じょこう、1904年
  11月7日 - 1973年4月23日)  梅 汝璈は、中華民国
  及び中華人民共和国の法律家、 政治家。字は「亜軒」。
  1924年に清華大学を卒業した後、アメリカに留学し、
  1926年に、スタンフォード大学を卒業した(文学士)。
  1928年にはシカゴ大学のロー・スクールで、法務博士
  の専門職学位を取得した。1929年に帰国した後は、南
  開大学、武漢大学教授を経て、行政院院長の宋子文、
  外交部部長の王世杰の助手となった事を皮切りに、内
  政部参事、立法委員といった国民党の要職を歴任した。
  東京裁判の中華民国代表判事 第二次世界大戦終了
  後は、東京裁判に中華民国の代表判事として本国での
  法曹経験は無かったが国民党政府から派遣された。梅
  はウィリアム・ウェッブ裁判長の定めた、米英中という席
  次に対して日本投降順にすべきだと猛反発し、最終的に
  はウェッブ裁判長の隣の席を得る事となった。
 
 青山貞一訳者注
  
  Source:Wikipedia

 そうでなければ、私の憎しみを晴らすために、どうしても先に何人かを殺さなければならない。 この言葉は、中国の法学者が「死刑執行前の裁判」にこだわり、日本の戦争犯罪者を法的手続きによって公正かつ客観的に処罰することを望んでいたことを豊かに記録している。

 歴史は否定できないし、変えることもできない。 南京大虐殺犠牲者の第三回国家追悼式典の前夜、法制日報の記者は、大量の史料を取材・収集した結果、当時の困難な状況下で、法治国家の下で戦争犯罪者を処罰するという理念を堅持し、「大規模な」司法捜査と証拠収集作業、厳格な裁判手続きと裁判を通じて、戦争犯罪者を処罰したのは、梅露、石梅、陳光宇などのエリート法学者であったことを深く実感した。

 厳格な裁判手続きと、裁判中に主張した戦犯たちとの戦いの精神があってこそ、判決文や書籍のページが残されたのである。 今だからこそ、私たちはその苦しい年月を限りなく思い起こし、裁判の結論を守るという揺るぎない決意を持ち、歴史的事実を無視し、南京大虐殺を否定する者を容赦なく攻撃し、粉砕するという確固たる意志を持っているのである。

 日本の右翼が南京大虐殺に関する歴史的事実を度々否定し、中国国民はもちろん、国際的な正義や平和を愛する人々から激しい反発を受け続けている中で、南京の「戦犯裁判軍事法廷」の歴史を整理することは非常に貴重なことである。

  歴史的事実を否定することが多い日本の右翼

 「1946年2月15日に設立された南京国防部戦犯裁判軍事法廷は、主に南京大虐殺を行った日本の戦争犯罪者などを裁いたもので、696名の日本の戦争犯罪者が国防部の検察当局によって起訴され、そのうち149名が死刑判決を受けた。」

  南京大虐殺犠牲者記念館の張建軍館長は、悪名高きB級戦犯、谷寿夫はじめ、非武装の中国兵や民間人を残虐に殺害した戦犯・田中軍吉(Tian Zhongjun Ji)、「百人斬り」の殺し合いを行った戦犯・向井敏明や野田毅などが、戦後、日本から護送され、中国で裁判にかけられたことを紹介した。 戦犯たちは、戦後、すべて日本から中国に引き渡され、南京国防部戦犯裁判軍事法廷の裁判にかけられた。

 ※注)田中軍吉
   当時陸軍大尉。第6師団中隊長。300人斬りの容疑で
   起訴、山中峯太郎編著『皇兵』(昭和15年) のなかの
  「三百人も斬った隊長の愛刀助広」として 説明されたこ
  とや中国人の処刑写真などが証拠とされ、死刑判決。
  処刑写真の処刑者が自分である ことを否定できなかっ
  たとされる。1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年4。
  出典:Wikipedia



(2)につづく      総合メニュー へ