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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

中国戦線、ある日本人兵士の日記
(霧山昴)2021年6月22日
著者:小林 太郎、出版:新日本出版社

独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月22日
 

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※本稿の記述はあくまで執筆者の個人的意見です。文体は
  「である調」に直してあります。


 南京攻略戦・徐州作戦に参加した日本人兵士が当時、毎日のように日記をつけており、日本に持ち帰ったものがその後、活字になっている。写真もついており、大変貴重な日記である。

 内容は、日本軍の兵士たちが中国人を見境なく殺戮(さつりく)していくもののだが、
悪びれたところがまったくない。

 日本では良き夫であるような人が中国戦線では平然と罪なき人々を殺し、食糧をふくめて財物を略奪しても罪悪感が皆無なのだ。

 同時に、
日記では身近な兵士仲間が次々に戦病死していくことも記述されている。末端の日本人兵士たちは、罪なき中国人にとっては残虐な加害者でしたが、同時に日本政府・軍部の被害者でもあったことがよく分かる日記である。

 それにしても、よくぞ日記を日本に持ち帰った(できた)ものである。そして、写真である。いったい、どこで現像していたのであろうか...。

 この日記には、有名な学者である笠原十九司、吉田裕のお二人が解説しており、その作戦の背景がとてもよく理解できまる。

 著者は日本大学工学部を卒業したインテリでなので、南京攻略戦のときには発電所の修理に従事していたので、南京大虐殺を直接には目撃していないようだ。

 歩兵二等兵(27歳)から上等兵になり、病気で本国送還されて、1939(昭和14) 年に満期除隊(このとき29歳)している。私の父も病気で中国大陸から台湾に送られ、日本に戻ることができた。戦地では病気になると生命が助かるんだ..。

 第16師団第9連隊第32大隊第9中隊に所属し、上海戦、南京攻略戦、徐州作戦、そして武漢三鎮の軍事占領という、日中戦争前半の大作戦のすべてに従軍した。

 よくぞ生きて日本に戻れたものである。相当な強運の持ち主だったわけである。
 
 欧米の軍隊は、大作戦が終了すると、しばらく休暇ないし本国帰還などがあるが、日本軍には一度もなかった。そのうえ、現役除隊の期日がきても、一方的に延期され、継続しての軍隊生活を余儀なくされた。そうなんだ、人権尊重という観念は日本軍にはまったくなかったのである。

 
南京大虐殺を否定する言説をなんとなく信じこむ日本人が少なくないのは、「やさしかった父たちが、中国戦線で残虐な虐殺なんかするはずがない」、「誠実で温厚な日本人が、虐殺事件を起こすなんて考えられない。

 中国側が日本人を批判するためにでっちあげたウソだ」という言説による。

 
しかし、日本国内では人間的に善良な日本人であり、地域や職場で誠実であり、家庭において優しい父や息子であった日本人男子が、ひとたび日中戦争の厳しい戦場に送られると、中国人を平気で虐殺し、残虐行為をし、中国人からは「日本鬼子」と怖がられる日本兵になっていた。

 日本軍が上海戦で苦戦したのは、ナチス・ドイツが中国軍に武器(たとえばチェコ製機関銃)を供与し、トーチカ構築を指導し、またドイツ人軍事顧問を送り込んでいたことによる。

 ヒトラーは、「日本にバレなければかまわない」という態度だった。すでに日独防共協定を結んでいたのに...である。

 蒋介石の国民政府は70個師団、中国全軍の3分の1、70万人の兵力を上海戦に投入した。戦死者は25万人。日本のほうも19万人もの大兵力をつぎこみ、戦傷者4万人以上(戦死者も9千人以上)を出した。

 日本軍は、「
皇軍兵士は捕虜になるな」という考えだったので、中国軍に対しても、捕虜として保護することはしなかった。つまり、直ちに殺害した。それには、そもそも自分たちの食糧さえ確保できていなかったことも大きい。

 これまでの通説は、日中全面戦争は、無謀な陸軍が国際的で平和的な海軍を強引に引きずりこんだというものだった。しかし、歴史事実は逆。海軍航空隊は首都南京に対して宣戦布告もしていないのに戦略爆撃を敢行した。それは、50回以上、のべ5330機あまり、投下した爆弾は900トンあまりというものだった。

 南京攻略戦の責任者であり、大虐殺の責任者でもある松井石根大将は、成績優秀であったのに、同期の大将のなかでは一番出世が遅れ、いちはやく予備役に編入されていた。そこで、59歳の松井は、軍功をあげる最後のチャンスとして南京攻略戦をとらえていたのではないか...。そして、それいけドンドンの武藤章大佐がそれを支えていた。

 どこの世界でも、口先だけは勇ましい人に、慎重派はいない.。

 著者の所属する第16師団は、9月に京都を出発していて、
防寒の装備はもっていなかった。そして、食糧の供給も十分でなかった。なので、日本部隊は、いわば強盗集団の軍隊だった。これが輝ける「皇軍」の実際の姿だったんである...。

 そして、著者は捕虜として中国兵を日本軍を虐殺(即決殺害)した写真を撮って、日記に添付している。

 南京にいた
唐生智という司令官は、近代戦の知識も経験もなく、南京防衛戦を指揮する実力もないのに、野心から名乗り出て、防衛軍事司令官に任命された。

 しかし、自分たちだけはいち早く脱出し、部下の膨大な中国軍を置き去りにした。いやはや、日中双方とも、ひどい司令官だったのだ。なので南京大虐殺はいわば必然的に起きてしまったということだ。この事実は、消しゴムで簡単に消せるものではない。

 いやはや...、日本人にとっては、とても重たい事実である。でも目をそむけるわけにはいかない。ぜひ、図書館で注文してでも一読して欲しい。

(2021年3月刊。税込3960円、新日本出版社


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