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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

忘れ去られつつある胡石庫の 「万人坑」
虎石沟“万人坑”正在被人遗忘
北方晨报/SINA 2004年7月7日

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年2月16日
 

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本文

背景

 大石橋市白寨郷胡石庫にある胡石庫「万人坑」(集団墓地)は、日本軍国主義者と偽満州国時代が中国の労働者民衆を殺害した「万人坑」で、その墓地は「胡石庫」と呼ばれれる。 「万人坑」では、深さ5メートルまで積み上げられたすべての白骨を見ることができ、骨は密集し、位置も異なり、その数は1万個と推定されているので、この場所は「万人坑」と呼ばれているのです。

 ※注)大石橋市(だいせききょう-
  大石橋市は中華人民共和国遼寧省営口市に位置する
  県級市。遼東半島西北部に位置し、マグネシウムを多
  く産することから「鎂(マグネシウム)の都」とも称される。
  Wikipeia


 大石橋市白寨郷胡石庫は日本時代は日満鉱業開発株式会社の作業場であった。

 1934年(中華民国23年、偽満州官制元年)、ここに営口第二獄が設置された。

 1945年3月、高壮屯の「矯正指導院」も逃亡者(正規の職がない者)を連れてきて、ここで労働に従事させた。 何千人もの強制労働者が、飢餓、労役、拷問、残酷な行為によって殺された。

 1964年、営口市人民政府は「胡志呼(中国語:虎石沟)万人坑展示館」を設立した。

 今日は7月7日、67年前の今日、中華民族は日本に対する8年間の抵抗戦争を開始した。

  今の中国人、特に若い人達や子供たちは、この屈辱的な歴史を覚えているのだろうか。 日本の中国侵略の際つくられたの「万人坑」をまだ覚えているのだろうか。

 7・7事件の前夜、記者は大石橋の胡志頭にある「万人坑」を訪ねた。この「万人坑」には、現在たった一人しか残っておらず、血と涙の歴史を物語りを証言している。 老舗のキュレーターが「万人坑」を守り語り続けてきたのだ......。


血と涙の歴史を物語る 「万人坑」


胡志呼(虎石沟)の万人坑(集団墓地)

 6月25日、大石橋市は、降り注ぐ雨のなか、古い学芸員、張凤岭(Fengling)さんが率いる 「万人坑」展示ホールに記者は、不公平のもと亡くなった人々の魂に敬意を表して伺った。

 「万人坑」は大石橋市から約10キロ、現在の遼寧マグネシウム鉱業会社の隣にあり、マグネシウム鉱山に囲まれた場所にある。 「今はもう、ここに来る人はほとんどいない!」  張鳳玲さんはポケットから鍵を取り出し、重い歴史を持つ大きな鉄の扉をゆっくりと押し開けながら、なすすべもなく記者にこう言った。

 「万人坑」の中庭に入ると、風雨に浸食された「鉄の証拠」と書かれた大きな石碑が目の前に立っている。 中庭を歩き、2つの古い木の扉をくぐると、血と涙の歴史を物語る「万人坑」が見えてくる。 時折、ドアから風が吹き込み、「ヒューヒュー」と哭くような音がする。 「すべてここにある、見ての通りだ」 張鳳玲さんはそう言った。

 「万人坑」にある骨は様々な形をしており、中には両手を広げ、頭蓋骨が上に傾いているものもあった。これは生き埋めにされた時に生存競争をしたためと推定される。

 そのうちの一つは、大人の骨で、腕には子供の骨が包まれていた。貧しい母親が子供を守ろうとしたが、どんなに強く抱きしめても、日本の暴徒が子供を虐殺するのを止めることができなかったのだ。 中には顔を伏せて両手を広げている骨もあり、「万人坑」から這い出そうとしているのがわかるし、鎖につながれているものも多い・・・・・。


胡志呼(虎石沟)の万人坑(集団墓地)


胡志呼(虎石沟)の万人坑(集団墓地)から漏出した労働者の頭骨

 30年以上現場を守ってきた張鳳玲さん(65)は、「ここで働く人々は出入りの自由がなく、一日中岩を掘り続け、重労働であるばかりか、食事も粗末で重病の治療も受けられず、毎日のように人が亡くなっている」と語った。

 死ぬと、遺体は溝に投げ込まれ、顔を隠すために数個のシャベルで土がかけられた。 掘り出された骨を見ると、若くて体力のある人が多く、中には足かせをつけられている人もいたそうだ。

 他にも多くの人が息絶えたまま万人坑に投げ込まれたと言われている。 最初は1日または数日で1人、1939年以降は1日で十数人、1943年以降は1日で数十人が万人坑に投げ込まれることもあった。


胡志呼(虎石沟)の万人坑(集団墓地)の紹介冊子


かつての展示場の「栄光」

 張鳳玲老人は、以前は鞍山鋼鉄大石橋マグネシウム鉱山工場の従業員で、1964年5月発掘の「万人坑」から、張鳳玲はここでアルバイトを志願し、通訳に始まり、後に名誉学芸員になり、1997年に退職し、後に「再雇用された」のだそうだ。

 「1997年に退職した後、再雇用された。 展示ホールでのメンテナンスコストは、彼のポケットからであると張鳳玲は言った: 「私はこのことについて気にしない!」と。 人生の大半を「万人坑」で過ごした老人は、目に涙を浮かべながらこう言った。「この屈辱的な歴史を、すべての人に覚えてもらいたいんだ!」と。

 張鳳玲老人は、「万人坑」展示館がオープンした最初の数年間を思い出し、とても興奮した様子で言った。「あの時は、多くの人が...」。 「1日に2万人、3万人と来場する展示場が一番輝いていた」時期で、1日に10回以上説明しなければならなかったと記者に語った。

 大連から来たグループが朝4時にバスで到着したところ、自分たちより早く到着した他のグループがいて、見学するのに並ばなければならなかったことがある。 学生や労働者だけでなく、軍人も訪れ、中には海城から歩いて「万人坑」を訪れた人もいた。

 現在では、清明節や9月18日などの記念日に一部の学生や軍人が訪れる以外は、平日はほとんど観光客はいない。 電気さえも止まってしまい、展示会場も荒れ果てている状態だ。

 近年、地元では「万人坑」を重視し、2度の大規模修繕を実施し、その資金の一部を順次投入してきたが、広大な遺跡の規模に比べれば、配分された額はほんの一滴に過ぎない。


風雨にさらされすぎた「万人坑」

 「万人坑」の現状について、張鳳玲老人は、今のような雨が数日降ると「万人坑」が水が浸み込み、ポンプを使う。ポンプアウトするまで敷居に座って、乾燥は半夜になると述べた。 特にひどかったのは、1994年と1995年の2度の台風で、ピット(坑)が3メートル以上の深さまで浸水したことだ。 雨のため、「万人坑」の壁の基礎が一部露出している。

 記者は、1960年代に人々が訪れるために建てられたこれらの「音と光」の展示館が、今ではマグネシウム鉱山工場の従業員とその家族のための骨壷を保管する「墓地」となっており、コレクションも大きく損傷し、ドアや窓も大きく破損しているのを見た。

 胡志国「万人坑」展示館は、1939年から1945年まで日本の侵略者が中国のマグネシウム資源を略奪し、中国の人々を残忍にした歴史を記録し、特別な愛国教育基地であり、一度破損すると再生することはできない。 鶯歌市の定年退職した老教師が興奮気味に言った。

 「万人坑」は過去の栄光を再現するのは難しいが、慰めにはなる。党中央委員会の未成年者の思想道徳教育強化の指示を実行し、若者がこの特別教育基地で良い思想教育を受けられるように、地方政府は投資して2ヶ月を使って改修することに決めた。 展示会場の「改装」が本格的に始まった。


「万人坑」の存在を知らない子供もいる

 では、本当に万人坑は人々の記憶から消えてしまったのだろうか? 本紙記者が現地で調査したところ、ほとんどの子どもたちが万人坑のことは知っていても、屈辱的な歴史についてはほとんど知らないことがわかった。 中には、「万人坑って何?」と聞いてくる子もいた。

 張鳳玲は、「昔、学校に行くのが嫌な子どもたちに、教育を受けないと落ちこぼれる、叩かれると教えると、涙が流れた」という。 しかし、今では貧しい家庭の子供でも聞けるものもあるし、少し条件の良い子供は全く聞けない・・・・・・。"

 しかし、地元の50歳以上の中高年やほとんどの若者が、この歴史をしっかりと受け止めてくれているのは心強いことだ。 政府に勤める張さんは、「時代とともに、若い世代は日本帝国主義の中国侵略の歴史を知らなくなってきている」と指摘する。 万人坑の骨は、日本帝国主義による東北地方の「開発」と「管理」の本質を理解するのに役立つだろう。


ジャーナリストノート

 私たちは、胡志谷の苦難の歴史と、日本の侵略者の手による鉱夫たちの悲劇的な死を忘れてはならない。

 数十年の時の流れは慌ただしいが、「万人坑」の血で塗られた歴史は、時の流れによって忘れ去られることはないだろう。 昔の中国は、国力が弱く、経済も後進国であったため、あらゆる面で叩かれ、中国の大地は煙といじめに満ちていた。

 今日、中国の東洋の龍は目を覚まし、新しい世代の鉱山労働者は知識、技術、経営に優れた鉱山名人となった。 「万人坑」は愛国教育の拠点となり、長く亡くなった鉱夫たちは安らかに眠ることができるようになった。

 私たちは歴史の足跡をたどりながら、悲惨な記憶を忘れることなく、昨日を歩んできたのだ。

曹偉主席記者 叢燕 文・写真


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