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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

日本人の筆による
「旅順大虐殺
(2)
文芸春秋 2004年第5期より抜粋 2009-07-20
一个日本人笔下的“旅顺大屠杀”
来源:网易历史举报

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年1月2日
 

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日本人の筆による「旅順大虐殺」(2)

 研究を深めていくうちに、井上は、日本当局による旅順虐殺の隠蔽と隠匿には、長い歴史があることを知った。

 日中戦争の煙が立ちこめた当初、日本政府はすでに意図的に内外の措置を講じて、自らの悪事を世界から隠蔽していたのである。

 まず、その内実を見る。1894年6月、陸軍省と海軍省が連名で、日本軍の中国に対する侵略的意図を明らかにしないよう、国内のすべての新聞に軍事ニュースを掲載することを禁止する命令を出したのである。

 記事の原本を指定された警察の保安局に提出し、「検閲承認」の印が押されたものしか掲載されない。「 汚れている」と判断された記事には「掲載禁止」のスタンプが押され、インクで破壊された。

 9月中旬、「報道の一元化」のため、大本営による報道資料掲載の新手順が導入された。 全国紙の記者は、広島県監察医務院に申請して初めて掲載許可を得ることができた。

 発行後、記録のために新聞のコピーを准将府に送ることが義務づけられていた。 同時に収容所では、軍隊に同行することを許された多くの日本人記者(画家11人、写真家4人を含む約130人、66紙所属)に対して極めて厳しい「軍隊同行規律」を課し、軍部が「有害記者」と判断した者は直ちに送り返すように、全体を監視する将校を配置した。

 軍部が「有害なジャーナリスト」と判断すれば、即座に日本に送り返され、重い罰金を課された。 これは、日本政府の国内メディアに対する統制がいかに厳しいものであったかを示している。

 その対外的な手腕を見よ。伊藤内閣で2度目の外相を務めた宗光陸夫は、「国際問題解決」のためのトリックを得意とする「レイザーバック」と呼ばれる人物であった。

  ※注)注)「レイザーバック
   「レイザーバックrasorback(ナガスクジラまたは
   背中の尖った野生の豚)


 その人は長年政治家として活躍し、「インチュウ電報」という新聞を共同経営していたので、マスコミを操り、国民を混乱させる方法には長けていた。

 日中戦争が始まるとすぐに、呂翁は欧米の日本の閣僚に迅速なメッセージを送った。現地の主流新聞社や通信社の傾向に細心の注意を払い、獲物を選んで多額の金を払い、極東からの報道(によれば:外国紙の特派員が書いた)を抑え、歪め、隠し、「日本に有利になるニュース」だけを掲載するようにすることであった。

 あるいは、単に黙っているだけの場合もある。 この「銀の弾丸作戦」は、横浜や神戸など外国人が住む地域で発行されている外国人社長の英字新聞にまで及び、社長に賄賂を渡して電報を買い取り、「好ましくないニュース」が流れないようにした。 「日本政府は、巧妙なゲームをしていたと言わざるを得ない。

 日本政府の内外の緻密な作戦は、決して無駄ではなかったと言わなければならない。 国内の「世論の一致」と数々の「朗報」によって、騙された国民は軍国主義的扇動に熱狂し、傲慢で高揚し、心理的に取りつかれ、変態化し続けたのだ。

 旅順攻略の知らせが本土に届くと、全国で勝利を祝うパレードや宴会が行われ、東京の株式市場は暴騰して「好景気」となった。 そして本陣は、第二軍が旅順で略奪した「戦利品」を「まだ痙攣している死体を踏みつけて」大量に持ち帰り、東京九段の靖国神社に展示し、「浅草や上野に観光に行った人よりも多い」人だかりができた。

 浅草や上野に行くよりも、この展示を見に来た人のほうが多い。 日本では「トロフィー」という名称が流行し、多くの企業が「トロフィー」という名称をつけた新製品を発売した。 中国人の頭の形をした」この石鹸は、「中国人を消耗させる」ことを目的としており、旅順の虐殺のような血生臭い暴力的なイメージで宣伝されたりもした。

 日本国外には、東洋の「銀の弾丸」に食らいつき、良心を失い、評判を売り渡すことも厭わず、視聴者を欺き、日本の虐殺者の罪を白紙に戻すために歪んだニュースを無謀にも発表するメディア集団がいたのである。

 例えばロンドンでは、日本の内田康哉駐英公使代理の指示で宗光陸夫が「多額の報酬」で英国中央通信社とロイター通信社を買収したので、「現地新聞に(日本の)不利な報道が出ると」、この二つの通信社はすぐに買収されるのが常であった。

 両通信社は、たいていすぐに対抗策を打ち出しました。 ロイター通信は、上海の特派員が旅順の「野蛮で悲劇的」な事件を暴露する電報を打つのを「即座に止めた」。

 中央通信社は、目をつぶって内田康哉の言葉をオウム返しし、彼の要求通りの調子で外部に主張したほどである。 「戦時中の正当な殺人を除いて、(日本人は)一人の中国人も殺していない。」  このような嘘つきは、アメリカのワシントンポスト(Washington Post)、日本のJapan Post(横浜で発行)、日本のWeekly Mail、イタリアや他の国の新聞にもいる。

 しかし、この世の中で、罪のない人々の血を流す悪党が、その痕跡を隠し、長い間、世間を欺いてきたことがどれほどあったことだろう。 1894年11月26日、イギリスの新聞「タイムズ」は「旅順で大虐殺発生」という電報を掲載した。

 ごく短い行程ではあったが、「旅順大虐殺」の情報を世界に初めて明らかにしたのである。 その直後の11月29日、ニューヨークの新聞で最も発行部数の多いアメリカの新聞「世界報」は、中国の至府(現在の煙台周辺)からの報告を掲載した。

 「(旅順の)日本軍は老いも若きもすべて撃ち殺し、3日間で略奪と殺戮は頂点に達した」という。「世界報」の非戦争特派員のこの短いメッセージが十分な関心を引かなかったのなら、「戦争特派員」クリールマンによる長い「ドキュメンタリー・レポート」がそれに続き、12月12、13、19、20日に掲載されたのである。

  12月12日、13日、19日、20日と数日間にわたって掲載された「日本軍大虐殺」「旅順大虐殺」は、まるでどん底の衝撃で、一瞬にしてヨーロッパ、アメリカ、南アジア、オーストラリアと全文明世界に衝撃を与えた。

 その後、『タイムズ』や『スタンダード』(英国)が追随し、さらに衝撃を与えた。 世界中の新聞が競って、クリーマンと彼の仲間の記事を、独自の社説や読者のコメントを付けて再掲載した。一般人から政府高官まで、「極東で起こった残虐行為の詳細を知って、人々は震え上がり、心を痛め、憤慨した」のである! 一般市民から政府関係者に至るまで、「極東の残虐行為に戦慄し、苦悩し、憤慨している」。


(3)へつづく