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ロシアの新しい外交政策、
プーチン ドクトリン
ロシアのNATOとの対立は
始まりに過ぎない
セルゲイ・カラガノフ著(4)
Russia’s new foreign policy, the Putin Doctrine
Moscow’s confrontation with NATO is just the start

Sergey Karaganov: RT  Feb.23 2022

翻訳:池田こみち(環境総合研究所顧問)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年3月1日
 
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<(4)本文>

今後に向けた問題点

 そして次に、新政策の重要な、しかしほとんど見落とされている、取り組むべき側面について述べよう。この新しい政策が実施され、ましてや成功するためには、私たちの社会科学や公的生活の時代遅れでしばしば有害なイデオロギー的基盤を退け、改革する必要があるのだ。

 これは、先人たちの政治学、経済、外交の進歩をもう一度否定しなければならないということではない。ボルシェビキはロシア皇帝時代の社会思想を捨てようとしたが、これがどうなったかは誰でも知っている。私たちはマルクス主義を否定し、それに満足した。今、他の教義にうんざりしている私たちは、自分たちがマルクス主義に対してあまりにせっかちだったことに気づいている。マルクス、エンゲルス、レーニンの帝国主義論には、私たちが利用できる健全な考え方があったのだ。

 公私の生活様式を研究する社会科学は、それがいかに包括的に見えようとも、国民的文脈を考慮に入れなければならない。それは国家の歴史に由来し、最終的には国家やその政府、エリートを助けることを目的としている。ある国で有効な解決策を別の国に無頓着に適用することは実を結ばず、忌まわしいものを生み出すだけである。

 軍事的安全保障と政治的・経済的主権を獲得した後に、知的自立に向けた取り組みを開始する必要がある。新しい世界では、発展を遂げ、影響力を行使することが義務づけられている。これを「知的脱植民地化」と呼んだのは、私の知る限り、ロシアの著名な政治学者ミハイル・レミゾフが最初である。

 輸入されたマルクス主義の影で数十年を過ごした我々は、経済学や政治学、そしてある程度は外交政策や防衛においてさえ、自由民主主義というまた別の外国のイデオロギーへの移行を始めている。このような魅力のために、私たちは土地、技術、そして人々を失ってしまったのだ。2000年代半ば、我々は主権を行使し始めたが、明確な国家的(また、他のものではありえない)科学的・思想的原則ではなく、直感に頼らざるを得なかった。

  「過去40年から50年にわたる科学的・思想的世界観が時代遅れ
   であること、および/または、外国のエリートのために意図
   されていたことを認める勇気は、いまだにないのだ。」


 この点を説明するために、私の非常に長い論点(問題点)リストの中からランダムにいくつかの質問を選んでみた。

 まず、実存的な問題、純粋に哲学的な問題から始めることにする。人間には精神と物質のどちらが先にあるのだろうか?そして、より平凡な政治的な意味で、何が現代世界の人々や国家を動かしているのか?一般的なマルクス主義者やリベラル派にとって、その答えは「経済」である。つい最近まで、ビル・クリントンの有名な「経済だ、バカヤロー」が公理とされていたことを思い出してほしい。しかし、人は食べるという基本的な欲求が満たされたとき、より大きなものを求める。家族への愛、祖国への愛、国家の尊厳への欲求、個人の自由、権力、名声。

 欲求の階層は、1940-50年代にマズローが有名なピラミッドで紹介して以来、よく知られるようになった。しかし、現代の資本主義はそれを捻じ曲げ、最初は伝統的なメディアで、後にはすべてを網羅するデジタル・ネットワークで、富める者も貧しい者も、それぞれの能力に応じて、拡大し続ける消費を強要しているのである。

 jね※注)"It's the economy, stupid"(「経済こそが重要なのだ、
    愚か者」)とは、
   アメリカ合衆国の政治においてビル・クリントンがジョージ・
   H・W・ブッシュに対して勝利を収めた1992年アメリカ合衆国
   大統領選挙の最中、広く使われた言い回しである。
    当時、冷戦の終結や湾岸戦争における勝利といったような、
   外交政策で大きな成果をもたらしたブッシュに勝つことは難し
   いと考えられていた。
   この言い回しは、正確にはクリントンの選挙参謀を務めたジ
   ェームズ・カービルが作った言い回しを少々変更したもので、
   近年景気後退がみられるにもかかわらず経済に対して的確
   に取り組まないブッシュより、クリントンのほうがよい選択肢
   であるというイメージを作った。
    クリントン陣営はブッシュを落選させるため、選挙運動で景
   気後退を利用した。1991年3月、多国籍軍によるイラクへの
   地上侵攻の数日後、世論調査ではアメリカ人の90%がブッシ
   ュ政権を支持した。しかし翌年、アメリカ国内の世論は急激
   に変わった。1992年8月の調査では、アメリカ人の64%がブッ
   シュ政権を支持しないと答えたのである。(Wikipedia)


 道徳的、宗教的基盤を失った現代資本主義が、無限の消費を煽り、道徳的、地理的境界を破壊し、自然と対立し、人類の種の存続を脅かすとき、我々はどうしたらいいのだろうか。我々ロシア人は、富を築きたいという欲望に駆られた起業家や資本家を排除しようとすれば、社会や環境に悲惨な結果をもたらすことを誰よりも理解している(社会主義経済モデルは、必ずしも環境に優しいとは言えなかった)。

 我々は歴史、祖国、性別、信条を否定する最新の価値観や、攻撃的なLGBTや超フェミニズムの動きをどうするか?私はそれらを支持する権利は尊重するが、そうした考えは、ポスト・ヒューマニズムだと思う。これも社会の進化の一段階として扱うべきなのか。私はそうは思わない。

 私たちは、この道徳的な流行から社会が立ち直るまで、それを回避し、その広がりを制限しようとするべきか?それとも、いわゆる「保守的」な価値観、端的に言えば、正常な人間の価値観を信奉する人類の大多数を率いて、積極的にそれと戦うべきなのだろうか。既に危険なレベルにある西側エリートとの対立をエスカレートさせる戦いに参加すべきなのだろうか。

 技術の発展と労働生産性の向上により、多くの人が食べられるようになったが、世界そのものは無政府状態に陥り、世界レベルで多くの指針が失われている。安全保障への関心が、再び経済よりも優勢になりつつあるのかもしれない。これからは、軍事的手段と政治的意志が主導権を握ることになるかもしれない。

 現代における軍事的抑止力とは何だろうか。国家や個人の資産、あるいは今日の欧米のエリートが深く結びついている外国の資産や情報インフラに損害を与えることなのだろうか。このインフラが破壊された場合、欧米世界はどうなるのだろうか。

 そして、関連する疑問としては:私たちが今日でも口にする戦略的平価(Strategic Parity)とは何だろうか?それは、劣等感と1941年6月22日症候群のために、疲弊した軍拡競争に国民を巻き込んだソ連の指導者が選んだ外国の戯言(たわごと)なのだろうか?

 たとえ、いまだに平等とバランスの取れた対策についてのスピーチを次々と量産しているとしても、私たちはすでにこの問いに答えているようだ。

 注)1941年6月22日はナチスドイツがソ連に侵攻した日。

 そして、多くの人が有効で役に立つ信じているこの軍縮とは何なのだろうか。裕福な経済にとっては有利な金のかかる軍拡競争を抑制し、敵対行為(戦争)のリスクを抑える試みなのか。それとももっと別のもの、つまり、競争、軍備開発、そして、敵に対して不必要な作戦・計画の過程を正当化するための道具なのか。
それに対する明白な答えはない。

 しかし、もっと実存的な問いに戻ろう。

 民主主義は本当に政治的発展の頂点にあるのだろうか。それとも、アリストテレスの純粋民主主義(これにも一定の限界がある)を除けば、エリートが社会をコントロールするための道具の一つに過ぎないのだろうか。社会と状況の変化に応じて現れては消える道具はたくさんある。

 時にはそれらを放棄し、時が来て、外的・内的な需要があるときにだけ復活させる。私は無制限の権威主義や王政を要求しているわけではない。特に自治体レベルでの中央集権化は、すでにやりすぎてしまったと思う。しかし、これが単なる道具に過ぎないのであれば、民主主義を目指すというふりはやめて、個人の自由、豊かな社会、安全、国家の尊厳などを求めるとストレートに言うべきではないだろうか?しかし、それではどうやって国民に対して、権力を正当化するのだろうか。

 マルクス主義者やリベラルなグローバリストがかつて信じていたように、多国籍企業、国際NGO(どちらも国有化・民営化を経ている)、超国家的政治機関の間の同盟を夢見るように、国家は本当に滅びる運命にあるのだろうか。EUが現在の形でいつまで存続できるのか、見ものだ。なお、高価な関税障壁を取り払うとか、共同の環境政策を導入するとか、より大きな利益のために各国の努力に参加する理由がないとは言わない。あるいは、自国の発展や近隣諸国への支援に注力し、他国が引き起こしたグローバルな問題を無視する方が良いのではないか?こんなことをしていては、相手も(我々に)干渉してくる(弄ぶ)のでは?

 土地や領土の役割とは何だろうか。つい最近、政治学者の間で信じられていたように、それは減少しつつある資産であり、重荷なのだろうか。それとも、環境危機や気候変動、ある地域では水や食料の不足が深刻化し、別の地域ではまったく不足している現状を前にして、最大の国宝なのだろうか。

 では、近い将来、その土地に住めなくなるかもしれない何億人ものパキスタン人、インド人、アラブ人などをどうすればいいのだろうか。1960年代にアメリカやヨーロッパが始めたように、今、移民を呼び寄せ、現地の労働コストを引き下げ、労働組合を弱体化させるべきなのだろうか。それとも、よそ者から自分たちの領土を守る準備をするべきなのだろうか。その場合、イスラエルのアラブ人に対する経験が示すように、民主主義を発展させる望みをすべて捨てるべきだ。

 現在、残念な状態にあるロボット工学を発展させれば、労働力の不足を補い、それらの領土を再び住みやすいものにすることができるだろうか?ロシア系先住民は、その数が減少し続けることが避けられないことを考えると、我が国においてどのような役割を担っているのだろうか。ロシア人が歴史的にオープンな民族であることを考えると、見通しは楽観的かもしれない。しかし、今のところはっきりしない。

 特に経済に関しては、まだまだ言い尽くせない。このような疑問・課題を立てることが必要であり、成長し、トップに立つためには、一刻も早く答えを見つけることが肝要である。ロシアは新しい政治経済を必要としている。マルクス主義やリベラルのドグマから解放され、現在の外交政策のベースとなっているプラグマティズムを超える何かが必要である。それは、未来志向の理想主義であり、ロシアの歴史と哲学的伝統を取り入れた新しいロシアのイデオロギーでなければならない。これは、パベル・ツィガンコフという学者が提唱した考えと同じである。

 これが、外交、政治学、経済学、哲学など、すべての研究の究極の目標であると思う。この作業は困難を極める。私たちは、古い思考パターンを打ち破ることによってのみ、この社会とこの国に貢献し続けることができるのだ。しかし、楽観的に終わるために、ここでユーモラスな考えを述べておこう。

 私たちの研究対象である外交、内政、経済などは、大衆と指導者が一体となった創造的プロセスの結果であることを認識する時期に来ているのではないだろうか?ある意味、芸術であることを認識することだ。それは、説明不可能なほど、直感と才能に由来している。だから、私たちは芸術・アートの専門家のようなものなのだ。私たちは芸術について語り、その傾向を見極め、芸術家たち、つまり大衆や指導者たちに役立つ歴史を教えているのだ。しかし、私たちはしばしば理論に迷い、現実から切り離されたアイデアを思いついたり、個別の断片に焦点を当てて現実を歪めてしまう。

 エフゲニー・プリマコフやヘンリー・キッシンジャーのように、私たちが歴史を作ることもある。しかし、彼らはこの美術史にどのようなアプローチをとっているかを気にしていなかったと私は思う。彼らは自分の知識、個人的な経験、道徳観、そして直感を頼りにしていたのだ。私は、私たちが一種の美術専門家であるという考え方が好きだ。そうすれば、ドグマを修正するという困難な仕事も少しは楽になるのではないだろうか。

 この記事は、Russia in Global Affairs誌のオンライン版で最初に発表されたものである。


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