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旧中山道、信州 宿場探訪

堀辰雄・文学記念館2

(軽井沢町)


青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

May 15, 2015
Alternative Media E-wave Tokyo
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◆堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)

 堀辰雄は12月28日 - 1953年(昭和28年)5月28日)は、日本の小説家。

 それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとしました。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造しました。肺結核を病み、軽井沢に療養することも度々あり、そこを舞台にした作品を多く残しています。

 戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の立原道造、中村真一郎、福永武彦、丸岡明などから支持され、彼らは堀の弟子のような存在として知られています。戦争末期からは結核の症状が悪化し、戦後はほとんど作品の発表もできず、闘病生活を送ったが48歳で死去しました。

「信濃・大和」への思い
 1943年(昭和18年)1月、『菜穂子』の構想の一部であった『ふるさとびと』を発表します。登場人物に亡き母のイメージを重ね、東京の下町ではなく、「信濃追分」を「ふるさと」にしようという志向が表れています。一方、8月まで雑誌『婦人公論』に、それまで6回訪れた大和旅行を随筆的にまとめた『大和路・信濃路』を連載し、大和への思慕を綴っています。

 この大和への関心にも、折口信夫の影響が顕著に見受けられ、「日本に仏教が渡来してきて、その新らしい宗教に次第に追ひやられながら、遠い田舎のはうへと流浪の旅をつづけ出す、古代の小さな神々の侘びしいうしろ姿を一つの物語に描いてみたい」という小説の抱負も語っていますが、これは実現しませんでした。

 1944年(昭和19年)1月に『樹下』を発表します。下旬に森達郎と疎開先の家を探しに追分へ行きます。帰京後に喀血し、絶対安静の状態が続き、9月に追分に借りた家へ移ります。

 1945年(昭和20年)、療養に専念しながら、日本の古典への関心を示し、新たな小説の創作意欲を持ちます。

 1946年(昭和21年)3月に『雪の上の足跡』を発表します。それ以降は、病臥生活に入ります。『ふるさとびと』を発展させたものを書きたいという抱負を持っていましたが、果たせないままとなります。

 1947年(昭和22年)2月に一時重篤状態となります。1949年(昭和24年)、川端康成や神西清の配慮で、旧作が再刊されます。

 1950年(昭和25年)、自選の『堀辰雄作品集』が第4回毎日出版文化賞を受賞します。1951年(昭和26年)7月に追分の新居に移ります。

 1953年(昭和28年)5月、病状が悪化し、書庫の完成を見ないまま、28日に妻・多恵に看取られ死去しました。

 48歳没。30日に自宅で仮葬し、6月3日に東京都港区芝公園(現:港区芝公園四丁目)の増上寺で、川端を葬儀委員長として告別式が執行されました。翌々年の1955年(昭和30年)5月28日に多磨霊園に墓碑が建てられ、納骨されています。


おもな作品
ルウベンスの偽画(1927年)
不器用な天使(1929年)
聖家族(1930年)
燃ゆる頬(1932年)
麦藁帽子(1932年)
美しい村(1933年)
鳥料理(1934年)
物語の女(1934年)
更級日記など(1936年)
ヴェランダにて(1936年)
風立ちぬ(1936-1937年)
かげろふの日記(1937年)
幼年時代(1938年)
菜穂子(1941年)
曠野(1941年)
花を持てる女(1942年)
ふるさとびと(1943年)
大和路・信濃路(1943年)
雪の上の足跡(1946年)

おもな作品
ルウベンスの偽画(1927年)
不器用な天使(1929年)
聖家族(1930年)
燃ゆる頬(1932年)
麦藁帽子(1932年)
美しい村(1933年)
鳥料理(1934年)
物語の女(1934年)
更級日記など(1936年)
ヴェランダにて(1936年)
風立ちぬ(1936-1937年)
かげろふの日記(1937年)
幼年時代(1938年)
菜穂子(1941年)
曠野(1941年)
花を持てる女(1942年)
ふるさとびと(1943年)
大和路・信濃路(1943年)
雪の上の足跡(1946年)
ルウベンスの偽画(1927年)
不器用な天使(1929年)
聖家族(1930年)
燃ゆる頬(1932年)
おもな作品
麦藁帽子(1932年)
美しい村(1933年)
鳥料理(1934年)
物語の女(1934年)
更級日記など(1936年)
ヴェランダにて(1936年)
風立ちぬ(1936-1937年)
かげろふの日記(1937年)
幼年時代(1938年)
菜穂子(1941年)
曠野(1941年)
花を持てる女(1942年)
ふるさとびと(1943年)
大和路・信濃路(1943年)
雪の上の足跡(1946年)
晩夏 甲鳥書林 1941
菜穂子 創元社 1941 のち角川文庫、岩波文庫
幼年時代 青磁社 1942 のち角川文庫
曠野 養徳社 1944
花あしび 青磁社 1946
絵はがき 角川書店 1946
雉子日記 1948 (新潮文庫)
堀辰雄作品集 全6巻 角川書店 1948-1950
あひびき 文芸春秋新社 1949
牧歌 早川書房 1949
風立ちぬ・美しい村 新潮文庫 1951。岩波文庫も
雪の上の足跡 新潮文庫 1951
聖家族・美しい村 角川文庫1952
かげろふの日記・曠野 角川文庫 1952。新潮文庫も
花を持てる女 1953 (三笠文庫)
大和路・信濃路 人文書院 1954。のち新潮文庫、角川文庫
堀辰雄全集 全7巻 新潮社 1954-1957
幼年時代・晩夏 新潮文庫 1955
妻への手紙 堀多恵子編 新潮社 1959。のち文庫
堀辰雄全集 全10巻 角川書店 1963-1966
杜甫詩ノオト 内山知也編 木耳社 1975
堀辰雄全集 全8巻別巻2 筑摩書房 1977-1980
「菜穂子」創作ノオト及び覚書 麦書房 1978.8

翻訳
コクトオ抄 現代の芸術と批評叢書 厚生閣書店 1929
アムステルダムの水夫 アポリネエル 山本

幼少時代
 1904年(明治37年)12月28日、東京府東京市麹町区麹町平河町五丁目2番地(現東京都千代田区平河町二丁目13番)にて出生します。実父・堀浜之助は広島藩の士族で、維新後上京、東京地方裁判所の監督書記を務めていました。母・西村志気は、東京の町家の娘。「辰雄」という名前は、辰年生まれにちなんで命名されています。

 浜之助には妻・こうがいたが病身で子がなく、辰雄は堀家の嫡男として届けられます。

 1906年(明治39年)、辰雄2歳の時、母・志気が辰雄を連れて堀家を去り、本所区向島小梅町(現:墨田区向島一丁目)へ移ります。1908年(明治41年)、辰雄4歳の時、母・志気は彫金師の上條松吉(寿則と号した)に嫁しました。

 辰雄の母も養父も、江戸っ子肌のさっぱりした気性であったため、辰雄のことで一度も悶着することもなく、誰の目にも本当の親子と見られ、辰雄自身も養父・松吉を実の父親だと信じ、父の死ぬ日までそれを疑ったことがなかったようです。

 なお、実父の堀浜之助は、1910年(明治43年)4月に死去した。その妻・こうも1914年(大正3年)に死去し、以後、浜之助の恩給は辰雄が成人に達するまで受給されていました。

◆数学少年の文学開眼
 1917年(大正6年)3月に牛島小学校卒業後、東京府第三中学校(現:東京都立両国高等学校・附属中学校)へ進み、4年修了で、1921年(大正10年)4月に第一高等学校理科乙類へ入学します。初めて親元を離れて寄宿舎へ入りました。

 神西清と知り合い、終生の友人となります。中学時代、数学が好きで未来の数学者を夢見ていた辰雄を、文学の方へ手引きし、目覚めさせたのが神西清でした。

 同期には、小林秀雄、深田久弥、笠原健治郎らがいました。入学の夏には、かねてから近所で親しくしていた国文学者の内海弘蔵一家が滞在している千葉県君津郡竹岡村(現:富津市)を訪ねて過ごします。この体験から、のちに『甘栗』、『麦藁帽子』が書かれることになります。

 高校在学中の1923年(大正12年)1月に神西清から教えられ、萩原朔太郎の第二詩集『青猫』を耽読し、詩の味を知ります。5月には三中の校長から室生犀星を紹介され、8月に室生犀星と共に初めて軽井沢へ行きます。しかし9月1日の関東大震災で隅田川に避難し、辰雄自身は九死に一生を得たものの、母・志気は水死。50歳でした。

 辰雄は衝撃を受けます。避難先の南葛飾郡四ツ木村(現:葛飾区)に養父と仮寓。10月、罹災後金沢へ引きあげる室生犀星から帰郷する直前に、芥川龍之介を紹介され、知遇を得ます。辰雄は母の死のショックも重なり、冬には肋膜炎に罹り休学する。この運命的な波乱の年の一連の経験が、その後の堀辰雄の文学を形作ったと言えます。

 1924年(大正13年)4月に本所区向島小梅町(現:墨田区向島一丁目)の焼跡に家を建てて養父と共に移ります。7月、辰雄は金沢の室生犀星を訪ねた帰途に、軽井沢の芥川龍之介のところへ寄り、芥川の恋人である片山広子(筆名・松村みね子)や、その娘・総子(筆名:宗瑛)と知り合います。

 辰雄は総子に恋心を抱くようになります。この年の一高の『校友会雑誌』にエッセイや詩を投稿していますが、そこには前年の苦しい体験を、「快適」なものに逆転させようとする意志が垣間見られます。

出典:Wikipedia

 下は堀辰雄の第四番目の別荘の1/20の模型です。昭和16年〜19年まで住んでいます。

 場所は旧軽井沢です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6


出典:入場時にいただいたパンフ

 昭和19年までは旧軽井沢の別荘に、そして昭和19年からは、疎開と療養を兼ねてこの追分に定住、昭和26年7月には追分に家を新築し、亡くなるまで1年10ヶ月、療養の日々を送り昭和28年5月28日、この家で49歳の生涯を閉じました。

 平成5年4月、堀辰雄終焉の地となった場所に「堀辰雄文学記念館」を開館、敷地内には、終焉となった家、辰雄が蔵書を納めるために建てた家(常設展示棟)、管理棟及び、平成13年建立された堀辰雄記念碑があります。

以上、上記のパンフより

 下は堀辰雄周辺の家(部屋)です。


出典:入場時にいただいたパンフ

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-5-6


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-5-6


つづく