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第3回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2013-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

初夏のアマルフィ海岸を行く
 6日目

早朝の散歩 - 手工芸品見学2-2

青山貞一・池田こみち  2013年6月14日
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 2013年アマルフィ海岸現地視察調査報告<125本 全体メニュー>


    
アマルフィの位置 ラヴェッロの紋章 イタリア国旗


◆ラヴェッロ、早朝の散歩2-2

 このあと、細い路地を入って行くと、ヴェネチアン・グラスのお店がありました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10  2013-6

 下の店はイタリアのヴェネチアのムラーノのガラス細工を扱っている店です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10  2013-6

 残念ながらやはり早朝で閉まっていました。下はトリップアドバイザーからムラーノのガラス細工の写真です。


Murano Export Glass (トリップアドバイザー提供)


Murano Export Glass (トリップアドバイザー提供)


Vetreria Murano Arte - VMA (トリップアドバイザー提供)


Murano Export Glass (トリップアドバイザー提供)

 その後、テレビ東京の「和風総本家」という番組でヴェネチアングラスを取り上げたことがありました。『スペシャル 世界で見つけたMade in Japan』2013年10月10日の放送だったと思います。
 
 そこで、イタリア・ムラーノ島の工房を訪ね、いろいろお話しを聞いたり、工場の中を見せてもらっているのですが、その過程で日本製のあるものを使っている、というのです。

 吹きガラスの技術をつかった作品づくりの工程で職人が硝子の成形のために使っているのはなんと、日本の新聞紙だったのです。

 1000度近くに熱せられたガラスの玉を濡らした新聞紙(厚いまま)を折り曲げて片手に持ち、片手で先端に熱したガラス玉が付いた棒をくるくる回して形を整えるのです。この新聞紙は絶対に日本の新聞でなければダメとのことで、イタリアやヨーロッパ、アメリカの新聞紙ではうまく出来ないそうです。

 丈夫で破れにくく、使い勝手がいいとのことでした。その工房では「日本経済新聞紙」をわざわざ取り寄せているということでびっくりしました。

 思わぬところで、日本の新聞紙が役に立っているんですね!

◆ヴェネツィアン・グラス

 ヴェネツィアン・グラスは、イタリア北東部ヴェネト州の州都・ヴェネツィアで作られるガラス工芸品の地域ブランドです。ヴェネツィアン・グラスは鉛を含まないソーダ石灰を使用する事が特徴で、コバルトやマンガンなどの鉱物を混ぜることで様々な色合いを表現することが出来ます。 混ぜた鉱物により硬度が変化し、赤色のものが最も硬度が高いのです。

 高い装飾性も特徴です。基本的な製法はソーダガラスを使用した吹きガラスですが、空中で吹くことにより極薄に吹き上げる技法や、グラスを細く引き伸ばし、そこに竜や花や鳥などをモチーフにした複雑な装飾を施すなど、「軽業師の妙技」と呼ばれる高度なテクニックが用いられています。昔は、極限まで薄く吹いたガラスを割り、カーニバルの行列で紙ふぶきの代用としてばら撒いた時代がありました。グラス作成に熟練した職人をマエストロと呼んでいます。


ゴブレット (1675-1725年) ヴェネツィア・ヴィクトリア&アルバート博物館 no. 108-1853


イスラム技術と様式に由来するエナメル装飾を施された
ヴェネツィアン・グラスのAldrevandini beaker (1330年頃)

歴史
 ヴェネツィアン・グラスの発祥は、13世紀中世ヴェネツィア共和国が東方諸国のすぐれた産物をヨーロッパ諸国に独自供給し東西貿易の中心地となる中で、その中でも最も珍重されていたガラス製品を自国で生産すれば多大な利益を得ることが出来ると考えガラス製造に乗り出したことに始まる、とする見解もあります。しかしトルチェッロ島からは7世紀ないし8世紀のガラス工房跡やガラスが発見されており、文献上も10世紀末にはガラス製造のことが登場します。

 このように、ヴェネツィアン・グラスの正確な起源は謎に包まれていますが、ヴェネツィア共和国は当時最も進んだ技術を持っていたアンティオキアと協定を結び、原料や燃料さらにはガラス職人までをもヴェネツィアに移しました。これによりローマ帝国−イスラム時代から発展してきたガラス技術を取り入れ、応用することでヴェネツィアン・グラスの技術は発展を遂げていったのです。

 しかし元々原材料や燃料を自国で産出できない土地柄であるヴェネツィア共和国は、ヴェネツィアン・グラスの技術が原材料の豊富な国々に漏れコピー製品が作られることを恐れたため強力な保護政策を取りました。

  1291年には全てのグラス工房のムラーノ島への強制移住を決定。グラス職人やその家族・販売者を島に住まわせ、島外に逃げる者は厳しく罰し功績を挙げたものには手厚い褒賞を与えるという法令を発令したのです。この政策には、火事を防ぐためという名目もありました。 これにより狭い島の中に工房が密集したため技術の切磋琢磨が進みグラステーブルやシャンデリア、鏡など様々な名品が作られました。

 一方でこのような厳しい保護政策の下でも逃げ出す職人はおり、各地に散らばりガラス技術を伝えて行きました。このような職人達の教えにより他の地方で作られたヴェネツィア様式のグラスをファソン・ド・ヴニーズと呼んでいます。

 ルネサンス期の15世紀〜16世紀にはその繁栄は頂点に達しました。 ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」はムラーノ島から連れ出された12人の職人が作成したと言われています。 この時代に一番力を注いだ技法がエナメル装飾で、貴族達は華麗な絵付けの施されたガラス製品を競うように買い求め、エナメル絵付けの施されたガラス製品を持つことがひとつの社会的ステータスとなりました。

 またこの時代にソーダガラスに消色剤を加え透明度の高い無色透明のガラス(クリスタッロ)の製法が確立されました。これは他国には無い技術であり、王侯貴族の間で高く取引されました。

 成形前のガラスの塊を冷却水につけて模様を生じさせるアイス・ガラス(ア・ギアッチョ)もこの時期に開発された。レース・ガラスの発明もこの頃で、以降のヴェネツィアン・グラスの代表的な装飾技法となりました。ただし、この時期はガラス職人が法の網の目をかいくぐって海外に流出した時期でもあります。これによってヴェネツィアン・グラスの技法と様式が海外に広められたとも言えます。
 
 17世紀・18世紀には、ヴェネツィア風のガラス製品がヨーロッパ中で大流行しました。 現在でもムラーノ島では多くの工房が軒を連ね、豊かな伝統技術を親から子へと受け継いでいます。

出典:Wikipedia

 下の写真の左側の赤いハート型のペンダントは2006年にヴェネチアに現地視察で出かけたときに池田が自分ように買ったものです。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 

 以下はヴェネッチアのヴェネチアングラスの店のウインドウをみているところです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10  2006-2

 下は池田が選んだペンダントを調整しているショップの主人です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10  2006-2


 下はガラス細工ショップの近くにあった画廊のギャラリーです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10  2013-6


つづく