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斗南藩の軌跡

B旧斗南藩墳墓の地
 
青山貞一

環境総合研究所(東京都目黒区)

掲載日:2014年5月22日
独立系メディア E-wave Tokyo
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斗南藩史分布図(むつ市)  出典:むつ市

 斗南藩史跡地「斗南ヶ丘」の次は、「斗南ヶ丘のすぐそばにある「旧斗南藩墳墓の地」である。墳墓の地までは多くの階段があった。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-5-17

◆旧斗南藩墳墓の地


旧斗南藩墳墓の地にて(むつ市)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-5-17


旧斗南藩墳墓の地にて(むつ市)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-5-17


斗南藩追悼之碑  旧斗南藩墳墓の地にて(むつ市)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-5-17

 以下は、旧斗南藩墳墓の地の解説板。


旧斗南藩墳墓の地の解説板
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-5-17

◆旧斗南藩墳墓の地

 会津戦争で敗れた会津藩は、明治元年(1868)9月、朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった。しかし翌明治2年(1869)9月、太政官より家名再興を許され、松平容保の嫡男の、わずか2歳の容大を当主とし、陸奥三戸、上北、下北の三郡を中心に、禄高三万石の立藩が許された。

 しかしこれは挙藩流罪ともいえるもので、会津藩士らは、新たな地の開拓に夢を託しこの地に移ったが、豊かな会津盆地で生まれ育った人々には、斗南の地の自然はあまりにも過酷で、斗南藩の重臣の山川浩は、

  みちのくの 斗南いかにと人問はば 神代のままの国と答へよ

と言わしめたほどだった。

 明治4年(1871)、廃藩置県となり、当主の容大は東京に去ったことで、拠り所を失った藩士たちは次々に離散し、その多くは会津に帰郷した。それでもこの地に留まった者は、日本初の民間洋式牧場を開設したり、入植先の戸長、町村長など、指導的な立場になった者も多い。

 現在、わずかに残っている旧会津藩士の墓碑は、斗南ヶ丘唯一の生き残りの島影家や会津ゆかりの人々が、あたたかく見守っている。


 斗南藩士とはいえ、いやだからこそ、新天地は、あらゆる面で会津と異なり、辛苦の連続であったはずである。以下を読むと、斗南藩大参事山川浩をはじめとする藩士たちが、慣れない農業を寒冷な下北半島で行うことが如何に冷酷、過酷なものであったかが分かる。にもかかわらず山川浩ら幹部は挫けず明日を夢見て尽力したことが分かる。もちろん、農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず飢えと寒さで病死者が続出、蒸発するものもあったとされている。

◆斗南藩

 新しい藩名は「斗南」と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住したが、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。斗南藩大参事山川浩、少参事広沢安任・永岡久茂らは農業施策を展開するが、慣れない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず飢えと寒さで病死者が続出、蒸発するものもあった。

 しかし山川ら会津人は挫けず、斗南ヶ丘建設に始まる原野の開墾政策、斗南日新館による教育・人材育成に務めた。

 明治4年、新政府は廃藩置県を実施、斗南藩も斗南県となり、藩知事だった松平容大も東京へ移住となった。山川らは斗南県の将来のため、財力のある弘前県との合併運動を進め、周辺五県が合併し青森県となった。

 しかし藩が消滅、藩主も失った不毛な斗南の地に希望を持てない会津人の多くがこれを機に全国に散って行ったために、軌道にのりかけた斗南藩の農業政策は瓦解した。なかには旧斗南藩に留まり農業を続けた島影家、我が国初の洋式牧場を開設した広沢安任のような人物もいる。

 出典:会津若松市

つづく