エントランスへはここをクリック   


足尾銅山現地視察
(8)銅生産と鉱毒事件


青山貞一 池田こみち
掲載月日:2014年5月9日
 独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁


現地視察(1)  現地視察(2)  現地視察(3)  現地視察(4)
現地視察(5)  現地視察(6)  現地視察(7)  現地視察(8)

現地視察(9)  現地視察(10) 現地視察(11) 現地視察(12)
現地視察(13) 現地視察(14) 現地視察(15)

                    
◆銅の製錬・製造工程    

 以下に銅鉱石から銅を製錬する過程を示す。ただし、足尾銅山では江戸、明治、大正、昭和と時代を追って製錬過程は変化しているので、以下はあくまでも製錬の原理として参考にしていただきたい。
 
 銅鉱石中の銅濃度は平均して0.6 %ほどでしかなく、商業利用される鉱石の大部分は硫化物(特に黄銅鉱 CuFeS2、少ない範囲では輝銅鉱 Cu2S)である。これらの鉱石は粉砕され、泡沫浮選もしくはバイオリーチングによって10から15 %程度にまで銅濃度が高められる。

 こうして銅が濃縮された鉱石に燃料としてのコークスのほか融剤として石灰石とケイ砂を加えて溶錬炉で溶融させることで、黄銅鉱中の鉄の大部分はスラグとして除去される。

 この方法は鉄の硫化物が銅の硫化物よりも酸化されやすい性質を利用しており、銅よりも先に鉄がケイ砂と反応してケイ酸スラグを形成し、低比重のケイ酸スラグが溶融原料上に浮上してくることで鉄が分離される。また、ケイ砂と石灰石からケイ酸カルシウムが生成し、これが融剤として銅の融点を下げる。
 
 その結果得られた硫化銅から成る銅鈹(マット)を空気酸化しながら焙焼することで、銅鈹中の硫化物は酸化物へと変換され、硫黄は酸化除去される。

 得られた酸化第一銅は2000℃を越える高温で加熱されることで還元され粗銅(銅含有率は約98 %)となる。

 サドバリー鉱山で用いられているマット法では、硫化物の半分だけを酸化物とした後、酸化銅を酸素源として硫化銅と反応させることで硫黄を除去する方法が用いられている。

 このようにして得られた粗銅は電解精錬によって精製され、副生する陽極泥からは金や白金が回収される。この工程は銅の還元されやすさが利用され、このように電解精錬によって得られた銅は電気銅とも呼ばれる。

 そこからさらに不純物を除いて純銅を生産するための方法としては、電気銅をシャフト炉で溶解製錬を行う(タフピッチ銅)、リンなどの脱酸剤を加えて残留酸素を除去する(脱酸銅)、高真空中で溶解させることで酸素を除去する(無酸素銅)などの方法が挙げられる。

 なお、日本の江戸、明治、大正、昭和、戦後の銅の製錬、製造問題については、以下に詳しい。

 酒匂 幸男、銅製錬技術の系統化調査 国立科学博物館産業資料



自然銅
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


足尾銅山で採掘された鉱石
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 以下は工程、製錬法に関連した図表である。

●江戸時代の銅製錬工程


出典:酒匂 幸男、銅製錬技術の系統化調査

●近代の銅選鉱法

① 比重選鉱法
最も簡単な方法で比重差を利用する。例えば砂金の採集。

② 重液選鉱
密度の異なる二種類の物質の混合物を、両者の中間の密度を持つ液体に供給すると一方は浮上し、他方は沈むのでこの原理を用いた分離法である。

③ 磁力選鉱
鉱石の持つ磁性を利用して分離する方法で鉄鉱石などの選鉱に用いられる。

④ 静電選鉱
粒子の導電性、絶縁性を利用した選鉱法、タングステン鉱の選鉱に用いられる。
出典:酒匂 幸男、銅製錬技術の系統化調査

表  転炉・真吹炉別の銅生産量

出典:酒匂 幸男、銅製錬技術の系統化調査

●戦後の製錬法


出典:酒匂 幸男、銅製錬技術の系統化調査


出典:酒匂 幸男、銅製錬技術の系統化調査

 なお、著者は銅の製錬との関連での環境問題について以下のように述べている。

5-2-6 環境問題(硫酸製造)
 公害問題としての排ガス処理は製錬の長年の問題で各時代にそれなりの対策は採られたものの不十分であった。終戦後日本鉱業では製錬排ガスからの硫酸製造を技術開発の主要テーマとして取り上げ、調査研究が進められたが、濃硫酸を製造する硫酸プラントの建設は厳しい戦後統制下にあつた。
 しかし1949年(昭和24年)2月来日した米国の化学工業調査団長フレデリック・ホープ氏は、製錬排ガスからの硫酸製造に関心を持ち、GHQ並びに日本政府(通産省)に対し製錬排ガスから硫酸を製造する事は、煙害の防止と同時に当時の硫酸不足の解消にもなると進言した。フレデリック・ホープ氏の進言をきっかけに本格的な濃硫酸製造プラントの建設が各製錬所で始まった。 以下略

 出典:酒匂 幸男、銅製錬技術の系統化調査


 以下は、足尾銅山が江戸時代から閉山するまでに生産した銅の量などについて、Wikipediaの記述に調査報告「我が国の銅の需給状況の歴史と変遷」(独立行政法人石油天然ガス鉱物資源機構)の各種統計を加えて解説したものである。

◆銅の製錬プロセスで回収出来る金属類

 銅系の鉱石など原料からは、金、銀、白金、パラジウム、セレン、テルルなどが回収でき、鉛系の原料からは錫、アンチモンなどが回収できるので、足尾銅山でもセレンによる汚染があった可能性がある。

 セレンについては、土壌の溶出基準と地下水、水質などの基準がある。もちろん上記は資源として回収できる金属類であり、それ以外にカドミウム、鉛、ヒ素などもでたものと思われる。

 旧通産省の資料にも以下のように記載されている。
http://www.meti.go.jp/policy/recycle/main/data/research/pdf/151106-2_nkk_27.pdf

 元来、非鉄製錬技術は、様々な元素を含む鉱石から有用な金属を選別・回収する技術であり、対象とする金属は、上述のほかニッケル・アンチモン・カドミウム・砒素・水銀・貴金属など 30 種類に及ぶ。

 従って足尾銅山では銅の製錬過程で上記のような各種金属、重金属が排気、排水として大気及び河川に流出、拡散していた可能性が高い。


◆日本における銅の生産量と足尾銅山

 足尾銅山は江戸時代の1550年(天文19年)に発見されたと伝えられている。17世紀初頭の1610年(慶長15年)、二人の百姓が銅鉱石の鉱床を発見、その後、江戸幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることとなった。

 幕府は足尾に鋳銭座を設け、足尾銅山は江戸時代非常に栄えた。足尾の町は「足尾千軒」と言われるような発展を見せる。これは当時の代表的な通貨である寛永通宝が鋳造されたことにも理由がある。

 下表は江戸時代の日本の主要銅山の生産量の推移を示している。足尾鉱山は別子鉱山(愛媛県)よりも江戸時代累計で24%生産量が多かったことが分かる。


出典:我が国の銅の需給状況の歴史と変遷(独立行政法人石油天然ガス鉱物資源機構)、本邦鉱業の趨勢50年史

 足尾銅山における上記の年間の銅生産量は、下表にある世界の銅生産量と比較してみても、かなりの量であることが分かる。


出典:我が国の銅の需給状況の歴史と変遷(独立行政法人石油天然ガス鉱物資源機構)

 足尾銅山は江戸時代、ピーク時で年間1,200から1,600トンもの銅を産出していた。

 その後一時採掘量が極度に減少したが、幕末から明治時代初期にかけてほぼ閉山状態となっていた。

 明治4年(1871年)に鉱山が江戸幕府、明治政府から民営化されたが、銅の産出量は年間150トンにまで落ち込んでいた。

 足尾銅山の将来性に悲観的な意見が多い中、1877年(明治10年)、のちの足尾銅山製錬所などの事業主となる古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手した。当初の数年は成果が出なかった。しかし、1881年(明治14年)、有望な鉱脈を発見することになる。
 
 以下の表にある主要官営鉱山の払い下げ過程を見ると、明治17-18年に古河市兵衛(民営足尾銅山精鉱所創始者)に銀山、銅山が払下げられていることが分かる。


出典:我が国の銅の需給状況の歴史と変遷(独立行政法人石油天然ガス鉱物資源機構)

 その後、探鉱技術の進歩とあいまって次々と有望鉱脈が発見される。この時期、足尾銅山を経営してきたのは上述の古川市兵衛である。

 古川市兵衛の死後、当時の明治政府の富国強兵及び殖産振興の政策を背景に、銅山経営は日立銅山、別子銅山とともに急速な発展を遂げることとなる。

 以下は、明治から大正にかけての足尾銅山と別子銅山における新技術導入状況を示している。1880年代前半にダイナマイト、1890年代後半に電動ポンプ、鉄道、水力発電、様式製錬などを導入していることが分かる。


出典:我が国の銅の需給状況の歴史と変遷(独立行政法人石油天然ガス鉱物資源機構)

 下表に見るように、20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した。


出典:我が国の銅の需給状況の歴史と変遷(独立行政法人石油天然ガス鉱物資源機構)

 しかし、この鉱山開発と製錬事業の発展により、足尾山地の樹木は坑木や燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬する工場から排出された大気汚染物質により、周辺一帯に著しい環境汚染を引き起こすこととなった。荒廃した山地を水源とする渡良瀬川は洪水を頻発し、製錬に伴う汚染物質を下流に流出させ、足尾山地を流れ下った流域の平地に水質汚濁や土壌汚染をもたらし、広範囲な環境汚染を引き起こす結果となった。これがいわゆる足尾鉱毒事件である。

 足尾鉱毒事件は、1891年(明治24年)田中正造による国会での発言で大きな政治問題となった。1890年代より鉱毒予防工事や渡良瀬川の改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅生産を優先するあまり、鉱毒公害防止技術的に未熟なこともあり、鉱毒被害は収まることはなかった。

 1973年(昭和48年)2月28日をもって足尾銅山は採鉱を停止した。これにより銅山発見以来360余年の銅山を閉じた。現在は足尾銅山観光などの観光地となっている。


 閉山後も輸入鉱石による製錬事業は続けられた。しかし、1989年(平成元年)にJR足尾線の貨物輸送が廃止され、以降鉱石からの製錬事業を事実上停止し、2008年(平成20年)時点では、製錬施設を利用しての産業廃棄物(廃酸、廃アルカリなど)リサイクル事業を行っているのみとなった。


◆足尾銅山鉱毒事件

 古河市兵衛経営の足尾銅山(現,古河機械金属株式会社)から流出する鉱毒が原因で,渡良瀬川流域の広大な農地が汚染され,明治中期から後期にかけて一大社会問題化した公害事件。

 今日の公害問題の特質のほとんどをそなえているため,日本の〈公害の原点〉と称される。

 1877年(明治10)旧幕時代に掘り尽くして廃鉱同然の足尾銅山を買収した古河市兵衛は,〈鉱源開発第一主義〉をモットーに坑内外の急速な近代化を行った。

 84年大富鉱帯が発見され,足尾産銅量は2300tに達して全国一となり,90年代は年産数千t台を推移した。

出典:コトバンク

<引用、転載>の出典
 Wikipedia
 我が国の銅の需給状況の歴史と変遷、独立行政法人石油天然ガス鉱物資源機構
 酒匂 幸男、銅製錬技術の系統化調査 国立科学博物館産業資料

つづく