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    ボロブドウール寺院遺跡群
  Archaeological site of Borobdur temple

サムドラ・ラクサ船 東インド会社1
 Museum Kapal Samudra Raksa

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年1月31日
独立系メディア E−wave Tokyo
 
無断転載禁
@ 博物館へ A 博物館概要 B 船のレリーフ C 船の絵画 D 船の歴史
E 船の航路 F 船の展示 G 造船所 H シナモンルート I 海のシルクロード
J 大航海時代 K 東インド会社 L 東インド会社2 M 日本の進出

 ここまでくると、オランダ東インド会社に触れないわけにはゆきません。主な出典はWikipediaです。

 英国などがカリブ海に作ったのがインド会社ですが、その東オランダは英国はじめオランダなど以下に示す欧州列強がアジアに作ったのが東インド会社です。

 このように、東インド会社は、欧州列強がアジア地域との貿易独占権を与えられた特許会社。重商主義帝国下、特に貿易差額主義に基づく経済活動に極めて大きな役割を果たしました。

 なお、ここで言う「インド」とは上述のように欧州、地中海沿岸地方以外の地域をさしています。同様の特許会社に新世界との交易を行ったものに西インド会社があります。西インド、West Indies は東インド会社同様、各国ごとに設立されました。
 
 なお、東インド会社には以下があります。オランダ東インド会社は世界初の株式会社としても有名でした。

 ・イギリス東インド会社
 ・オランダ東インド会社
 ・スウェーデン東インド会社
 ・デンマーク東インド会社
 ・フランス東インド会社

<参考資料:オランダ東インド会社>

 オランダ東インド会社(正式には連合東インド会社略称VOC)は、1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれています。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社です。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いたのです。



18世紀初頭のジャワ島の地図   出典:Wikipedia



1627年、、ジャワ島北ジャカルタに作られたオランダ東インド会社の造船所   出典:Wikipedia


1681年、ジャワ島北ジャカルタに作られたオランダ東インド会社の造船所   出典:Wikipedia

 資本金約650万ギルダー、重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれました。これには同国の銀行のホープ商会も参加しました。本社はアムステルダムに設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、
ジャワや長崎出島などに置かれました。18世紀末の1799年12月31日にオランダ政府により解散させられました。

歴史
設立までの背景

 16世紀後半、スペインと対立し、同国と八十年戦争を行っていたオランダは、スペインによる貿易制限、船舶拿捕など、経済的に打撃を受けていました。当時、
東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルが、1580年にスペインに併合されていたことで、ポルトガルのリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていました。

 こうした中、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペイン(と併合されていたポルトガル)に対抗する必要がありました。

 1595年から1597年までの
航海を通じてジャワ島のバンテンとの往復に成功を収めると、いくつかの会社が東南アジアとの取引を本格化させました。しかし、複数の商社が東南アジア進出を図ったために現地(東南アジア)での香辛料購入価格が高騰した上、本国(オランダ)で商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落する一方であり、諸外国との経済競争を勝ち抜く上で不安が残されました。さらに、1600年にイギリス東インド会社が発足したことは、この懸念を深めさせました。




つづく