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千葉県3大壇林跡短訪
小西壇林(正法寺)詳細資料
 

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
2021年10月15日視察
独立系メディア E-wave Tokyo

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上総小西檀林(妙高山正法寺):山武郡大網白里町小西 詳細
 出典:近世日蓮宗関東檀林・京都檀林

 長禄2年(1458)正法寺創建、開基は小西城主原肥前守胤継、開山は平賀本土寺八世妙光院日意。(日意は阿弥陀堂を廃し、法華堂とする。)

 天正18年(1590)正法寺7世日悟(平賀本土寺15世)が通王院日裕を招じ、小西檀林を開設。

 寛永7年(1630)「身池対論」、日領は奥州相良に追放。

 ※身池対論:身延山久遠寺対池上本門寺の対論
 ※守玄院日領(小松原鏡忍寺9世・小湊誕生寺14世・
  小西談林能化)

 寛永8年受派身延、小西檀林を帰伏。

○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より

守玄院日領:

 日領は小松原鏡忍寺9世・小湊誕生寺14世・小西談林能化である。
   主著「日蓮本地義」を著し、日蓮は常行菩薩の垂迹であると説く。

 寛永7年寛永の法難で奥州相馬に配流される。

 慶安元年(1648)11月3日寂。


○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より

◇中村・小西両談所の帰伏
 
 身池対論で、奥州岩城へ追放となった遠寿院日充は中村檀林8世能化である。中村は池上日樹(6世)中山日賢(7世)を能化に迎え、小西檀林とともに関東不受派の中心檀林であった。

 また同じく奥州相馬に追放になった守玄院日領は、はじめ佐渡に追放となるが、相馬中村城主相馬氏の老臣である池田直尚によって相馬に預け替えとなるが、小松原鏡忍寺12世でもあり、小西檀林5世の能化であり、10世を再任する。

 身延は小湊に続き、中村・小西両談所を支配下に置くべく、画策をなす。小西檀林に対しては、村民を扇動して、不受の学徒を追放する。中村檀林に対しては起請文を出させて、身延支配を強制し、これも不受の所化衆を多胡・玉造へ追放する。

○江戸後期の檀林絵図:


出典:正法寺・小西壇林跡
正法寺境内坪数絵図:寛政3年(1791)

 正法寺境内坪数絵図:「飯高・小西・大沼田の
    檀林の建築構成-日蓮宗寺院伽藍配置の研究(1)」 より


 伽藍中央に講堂(東向、13×8間、唐破風向拝付)があり、左奥に玄関・方丈(8×7間)・座敷2棟(4×6間半、9間半×5間)がある。講堂前方右に経蔵・鳥居、正面に本堂(向拝付、8×7間)、拝殿、妙見宮を配する。鐘楼は本堂前方(南)にある。

 講堂北に稲荷2棟、鳥居2基、鎮守、拝殿がある。

 講堂左に所化寮が並び、中門、惣門(南向)に通ずる。寮は10棟、戸数70。中門と惣門の間、東に風呂屋、西に堅高堂がある。

 所化寮西に炭小屋、飯台(3間半×10間)、正行寺客殿及び庫裏がある。東側には塔頭があり、南より教蔵寺、徳性寺、蓮乗寺、幽玄院がある。また徳性寺と蓮乗寺の間に題目堂、教蔵寺と徳性寺の間の東に学寮4棟がある。
 
 明治6年檀林諸堂を火災・焼失する。現本堂は講堂で、寛文4年(1664)建立、但し後世に大改築。

○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より

 明治27年、寺中蓮乗寺移転、寂照山蓮乗寺として岩手県上閉伊郡大槌町末広町7−14に現存。

 明治32年、寺中徳性寺移転、大黒山徳性寺として長崎県雲仙市吾妻町栗林名443に現存。