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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

誕生寺6
(千葉県鴨川市小湊)

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec. 12, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


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◆日蓮大聖人の幼少像      出典:誕生寺公式Web


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 誕生寺の仁王門から参道を直っすぐに進むと、祖師堂へ至る中程左手に、高い台座に乗った銅像があります。大きく広がった松の枝の間から、右手に数珠、左手に経巻を持つかわいらしい姿が見え隠れしています。

 これは日蓮聖人がまだ善日麿(ぜんにちまろ・また薬王丸とも伝えます)と称していた少年の日のお姿なのです。

 日蓮聖人は、貞応元年(1222)2月16日に誕生され、大平洋の潮風をうける小湊の両親の膝元ですくすくと成長されました。そして、12歳になると、両親の元を離れて清澄山に登られました。

 清澄山は不思議法師の開創になると伝えられ、慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)が中興した天台宗の名刹です。現代のような学校教育の制度が無かった時代には、寺院は人々にとって学校の役割をも果たしていましたから、善日麿の登山も、初等教育を受けるためでした。誕生寺の銅像は、この清澄登山前のお姿であったのです。

さて、この銅像の建立は、昭和10年にまでさかのぼります。その2月16日、日蓮聖人誕生の聖日をトして、昭和6年に迎えた日蓮聖人650遠忌報恩の記念として発願されたのです。当時の貫首は67世今井日誘上人です。発起人には、神田八講や東京八講・関東睦などの信徒組織の代表6名が名を連ねています。さらに、賛助員として64名の僧侶・信徒が助力をしました。

 この銅像は、その後数奇な運命をたどることになります。第二次世界大戦の激化によって、多くの金属製品と共に戦時供出されることとなったのです。そして、戦争も終わったある日、偶然にもほとんど無傷で発見されたのです。

 それは、一人の篤信者が、東京の両国駅で電車の窓から、構内に置かれていた多くの戦時供出品をながめていたときでした。左手を欠いたお像が、そのなかにあったのです。関係方面への働きかけが実り、誕生寺へとお像が還り、元のように安置されたのは、昭和21年8月27日のことです。欠けていた左手も、修復されました。

 清澄山には、聖人32歳、昇る朝日に向かってお題目を唱え立教開宗を天地に宣言する青年日蓮のお像があります。一方、このお像は12歳の少年善日麿、誕生寺にとって誠にふさわしいお姿であるといえましょう。


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