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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

清澄寺1
(千葉県鴨川市)

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec. 12, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


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 小湊の誕生寺訪問の後は、鴨川市清澄の清澄寺を訪問しました。清澄山の頂上近くにあり、ここは日蓮上人が出家得度され、始めてお題目を唱えられた聖地と言われ、現在日蓮宗の大本山となっています。

 清澄寺は標高330m近く
にあり、周辺は森林など自然の中にたくさんの由緒ある伽藍、記念碑などが鎮座しておりました。折からの極寒の天気に加え、霧が境内に立ち込めており、さながら素晴らしい幻想的な景観を醸し出していました。

 ただ、清澄山を車で上る際、大規模に道路と橋梁工事をしている場所があるので、何かと思ったら、自然を破壊してまで敢えて造成する必要がない、ショートカット用の道路と橋梁を勾配のある山肌につくっていることが分かりました。

 清澄寺に行くには既存の立派な道路を使えば全く問題ないにも関わらず、ここでも「ためにする」公共事業を無理やり行っている様は、なんとも不愉快極まりないものがありました。


出典:グーグルマップ

 清澄寺は、下のグーグルマップにあるように、鴨川市の中心部を東に抜けて、旧安房郡天津町から清澄山に向けて北上する道にありました。


出典:グーグルマップ


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-12-11

日蓮宗 大本山 清澄寺の住所
〒299-5505 千葉県鴨川市清澄322


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-12-11


清澄寺の概要

 清澄寺(せいちょうじ)は、千葉県鴨川市清澄にある日蓮宗の大本山。山号は千光山です。日蓮が出家得度および立教開宗した寺とされ、久遠寺、池上本門寺、誕生寺とともに日蓮宗四霊場と呼ばれています。

 寺の縁起によれば、旅の僧(聖僧)が当地を訪れて虚空蔵菩薩を祀る一寺を建立し、山岳信仰の霊場となったといいます。僧の素性は不明で、「不思議法師」と呼ばれました。山頂近くに古い柏の木があり、怪しく千光を発していたことから山号を千光山とし、柏の木の下に水の涸れた池があって、加持すると清泉がたちまちに沸いたことから寺号を清澄寺としたといいます。

 千光山清澄寺はおよそ1200年の昔、"不思議法師"と名付けられた僧侶が千光を発する柏の木で虚空蔵菩薩の仏像を彫り、その仏像の前で21日間修行をしたことに始まります。

清澄(きよすみ)が浮世絵に登場

「 清澄」(きよすみ)はもとは清澄寺の寺領であり、お堂などを建立するための職人たちが住み着いたことが集落のはじまりといわれています。賑わいをみせるようになったのは、江戸時代の中期以降と推測されます。

 浮世絵師・安藤広重が清澄寺に参拝したのは嘉永5年(1852)のこと。『房総行日記』には『清澄寺門前の坂道に料理茶屋がある。いずれも田舎風でなく、粋な作りの店であった』と書かれています。

山海見立相撲(さんかいみたてずもう)

 安政5年(1858)に山田屋から板行。広重最晩年の作で、全国各地の名所を描いた二十枚のシリーズ。画面右上のタイトルデザインが、相撲の行司が使う軍配となっている。千葉県からは、「安房清住山」、「安房小湊」、「上総木更津」、「上総鹿楚山」(かずさかのうざん)の4ヵ所の風景が収められている。


出典:安藤広重「安房清住山」(山海見立相撲のうちの一枚)

出典:きよすみへようこそ


清澄寺の略縁起

 承和3年(836)、天台宗比叡山延暦寺の中興の祖慈覚大師円仁師がこの地を訪れ、その仏像の前で21日間の修行をしました。それ以来、当山は天台宗のお寺となり次第に栄えていきました。ところが、室町〜江戸期には度重なる火災と戦により衰退と復興を繰り返します。

 大正期に入り日蓮聖人の銅像が完成したことでお参りの信者さんが増え、真言宗智山派と日蓮宗との間で改宗の話し合いがもたれました。そして昭和24年、当山は日蓮宗に改宗し宗門直轄の大本山として現在に至ります。

 清澄寺は日蓮大聖人が出家得度され、始めてお題目を唱えられた聖地であります。 大聖人はこの清澄で勉学され虚空蔵大菩薩に願をかけ、智恵の宝珠を授かり、 自信を深められました。 (大本山 清澄寺別當 二宮將泰

清澄寺の縁起

 日蓮聖人は、1222(貞応元)年2月16日、安房国東条郷(現在の千葉県鴨川市小湊)でお生まれになり、「善日麿」と命名されました。

 1233(天福元)年、日蓮聖人12歳のとき、生家近くの清澄寺にのぼり道善房に師事、「薬王丸」(やくおうまる)と改名。

 16歳のとき正式に出家得度し、「是聖房蓮長」と号されました。

 若き日の日蓮聖人は、清澄寺にて本尊の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈願されて以来、鎌倉・比叡山・高野山などを遊学し、ひたすら勉学に励まれました。諸経・諸宗の教学を学んでゆく中で、「法華経」こそが末法の世のすべての人々を救うことのできる唯一の経典であることを確信されます。

 そして、十有余年にわたる遊学を終えて恩師道善房の住する清澄寺に戻った日蓮聖人は、1253(建長5)年4月28日早朝、清澄山の旭森山頂に立ち、太平洋の彼方から暁闇をやぶってつきのぼる朝日に向かって高らかにお題目を唱え、ついに立教開宗の宣言をされ伝道の誓願を立てられたのです。このとき日蓮聖人32歳、同時に名を「日蓮」と改められました。

出典:大本山清澄寺公式サイト


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