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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

伊能忠敬
(生い立ち)

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec.11, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


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伊能忠敬

 以下の文章の出典は主にWikipeidaからの抜粋です。

 伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・測量家であり、通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)、字は子斉、号は東河です。

 寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにしました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-12-11


伊能忠敬銅像(香取市佐原公園)
出典:Wikimedia Commons

幼少期

 延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれました。

 幼名は三治郎。父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現在の横芝光町)にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りしました。三治郎のほかに男1人女1人の子がいて、三治郎は末子でした。

 6歳の時、母が亡くなり、家は叔父(母の弟)が継ぐことになりました。そのため婿養子だった父貞恒は兄と姉を連れ実家の小堤村の神保家に戻りますが、三治郎は祖父母の元に残りました。

 10歳の時、三治郎は父の元に引き取られました。神保家は父の兄である宗載(むねのり)が継いでいたため、父は当初そこで居候のような生活をしていましたが、やがて分家として独立しました。

 三治郎は神保家には定住せず、親戚や知り合いの元を転々としたといわれています。常陸の寺では半年間算盤を習い、優れた才能を見せました。17歳くらいのとき、佐忠太と名乗って、土浦の医者に医学を教わった記録があります。

伊能家に婿入り

 三治郎が生まれる前の寛保2年(1742年)、下総国香取郡佐原村(現在の香取市佐原)にある酒造家の伊能三郎右衛門家(以下、伊能家)では、当主の長由(ながよし)が、妻タミと1歳の娘ミチを残して亡くなりました。長由の死後、伊能家は長由の兄が面倒を見ていましたが、その兄も翌年亡くなり、そのため伊能家は親戚の手で家業を営むことになりました。

 ミチが14歳になった時、伊能家の跡取りとなるような婿をもらいましたが、その婿も数年後に亡くなりました。そのためミチは、再び跡取りを見つけなければならなくなりました。

 伊能家・神保家の両方の親戚である平山藤右衛門(タミの兄)は、土地改良工事の現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は若いながらも良い仕事ぶりを発揮しました。

 そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解しました。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになったのです。その際、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらいました。

 宝暦12年(1762年)12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継ぎました。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男の子1人がいました。忠敬ははじめ通称を源六と名乗っていましたが、後に三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬としまし。

佐原時代

 忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村でした。舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行ききしました。このような佐原の土壌は後の忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられています。

 当時の佐原村は天領で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治によって決められることが多かったといいます。その村民の中でも特に経済力が大きく、村全体に大きな発言権を持っていたのが永沢家と忠敬が婿入りした伊能家でした。

 伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関わっていますが、当主不在の時代が長く続いたため、事業規模を縮小していました。

 他方、永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていました。そのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かったのです。

 以下は安永3年(1774年)、忠敬29歳のときの伊能家の収益です。

 ・酒造 163両3分
 ・田徳  95両
 ・倉敷・店賃 30両
 ・舟利 23両2分
 ・薪木 37両3分
 ・炭   1両1分
 合計 351両1分

 注)1両=13万円とすると、4564万円となります。

名主としての忠敬


出典:伊能忠敬記念館

 天明3年(1783年)、浅間山の噴火などにともなって天明の大飢饉が発生し、佐原村もこの年、米が不作となりました。忠敬は他の名主らと共に地頭所に出頭し、年貢についての配慮を願い出ました。その結果、この年の年貢は全額免除となり、さらに、「御救金」として100両が下されました。

 また、同じ年の冬になってから行われた利根川の堤防に関する国役普請では、普請掛りを命じられた。忠敬は堤防工事を指揮するとともに、工材を安く買い入れることで、工事費の節約の面でも手腕を発揮しました。一方その頃、妻ミチは重い病にかかり、同じ年の暮れに42歳で亡くなりました。

 地頭の津田氏は前述のように佐原村の年貢を免除したりしていていましたが、一方で伊能家や永沢家にたびたび金の無心をしていました。そのため、両家は地頭に対して多くの貸金を持つようになり、地頭所に対しても、また村民に対しても、よりいっそうの発言力を持つようになったのです。

 そして忠敬は、天明3年(1783年)9月には津田氏から名字帯刀を許されるようになり、さらには天明4年(1784年)、名主の役を免ぜられ、新たに村方後見の役を命じられました。

 村方後見は名主を監視する権限を持っており、これは永沢治郎右衛門も就いている役です。こうして忠敬は、永沢とほぼ同格の扱いを受けることができました。

天明の大飢饉

 浅間山の噴火以降、佐原村では毎年不作が続いていました。天明5年(1785年)、忠敬は米の値上がりを見越して、関西方面から大量の米を買い入れました。しかし米相場は翌年の春から夏にかけて下がり続け、伊能家は多額の損失を抱えました。周囲からは、今のうちに米を売り払って、これ以上の損を防いだ方がよいと忠告されましたが、忠敬は、あえて米を全く売らないことにしました。

 忠敬は、もしこのまま米価が下がり続けて大損したら、そのときは本宅は貸地にして、裏の畑に家を建てて10年間質素に暮しながら借金を返していこうと思っていましたが、その年の7月、利根川の大洪水によって佐原村の農業は大損害を受け、農民は日々の暮らしにも困るようになりました。

 忠敬は村の有力者と相談しながら、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど、貧民救済に取り組みました。各地区で、特に貧困で暮らすにもままならない者を調べ上げてもらい、そのような人には特に重点的に施しを与えました。

 また、他の村から流れ込んできた浮浪人には、一人につき一日一文を与えました。質屋にも金を融通し、村人が質入れしやすくするようにしました。翌年もこうした取り組みを続け、村やその周辺の住民に米を安い金額で売り続けまし。このような活動によって、佐原村からは一人の餓死者も出なかったといいます。

 天明7年(1787年)5月、江戸で天明の打ちこわしが起こると、この情報を聞いた佐原の商人たちも、打ちこわし対策を考えるようになりました。この時、皆で金を出しあって地頭所の役人に来てもらい、打ちこわしを防いでもらってはどうかという意見が出されました。

 しかし忠敬は、役人は頼りにならないと反対し、役人に金を与えるならば農民に与えた方がよい、そうすれば、打ちこわしが起きたとしても、その農民たちが守ってくれるから、と主張しました。この意見が通り、佐原村は役人の力を借りずに打ちこわしを防ぐことができたのです。

 忠敬が貧民救済に積極的に取り組んだことについては、村方後見という立場からくる使命感、伊能家や永沢家が昔から貧民救済を行っていたという歴史、そして農民による打ちこわしを恐れたという危機感など、いくつかの理由が考えられています。また、伊能家代々の名望家意識とともに商人としての利害得失を見極めた合理的精神がこうした判断を促したと考えられています。

 佐原が危機を脱したところで、忠敬は持っていた残りの米を江戸で売り払い、これによって多額の利益を得ることができたといいます。

隠居

 この頃、長女のイネはすでに結婚して江戸に移っており、長男景敬は成年を迎えていました。忠敬は、景敬に家督を譲り、自分は隠居して新たな人生を歩みたいと思うようになっていました。

 そして寛政2年、地頭所に隠居を願い出たましが、地頭の津田氏はこの願いを受け入れませんでした。これは、当時の津田氏は代替わりしたばかりの頃だったため、まだ村方後見として忠敬の力を必要としていたからです。

 地頭所には断られたが、忠敬の隠居への思いはなお強かったといいます。この時忠敬が興味を持っていたのは、暦学でした。忠敬は江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごし、店の仕事は実質的に景敬に任せるようにしていました。寛政3年(1791年)には、次のような家訓をしたためて景敬に渡しました。

 第一 仮にも偽をせす孝弟忠信にして正直たるへし
 第二 身の上の人ハ勿論身下の人にても教訓異見あらは急度
     相用堅く守るへし
 第三 篤敬謙譲とて言語進退を寛容に諸事謙り敬み少も人と
     争論など成べからず



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900   2018-12-11

 寛政4年(1792年)、忠敬は、これまで地頭所に金銭を用立てすることによって財政的に貢献したという理由で、地頭所から三人扶持を与えられました。ただしこれは、忠敬にまだ隠居してほしくないという地頭所の思惑も含まれていたと考えられています。

 翌寛政5年(1793年)には、久保木清淵らとともに、3か月にわたって関西方面への旅に出かけました。忠敬はこの旅についての旅行記を残しています。そしてそこには、各地で測った方位角や、天体観測で求めた緯度などが記されており、測量への関心がうかがえます。

 寛政6年(1794年)、忠敬は再び隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れました。忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由(伊能家が代々使っていた隠居名)と改め、江戸で暦学の勉強をするための準備にとりかかりました。

 なお、寛政6年に佐原の橋本町(現・本橋元町)の惣代より村役人および村方後見である伊能三郎右衛門宛てに町内への便所の設置を求める願書が出されており、ここに登場する三郎右衛門は忠敬から家督を譲られた景敬であるとされています。ちなみに、現在の本橋元町にある公衆便所がこの時設置された便所の後身に当たるといいます。


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