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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

伊能忠敬
(第五次測量、近畿・中国)
(第六次測量、四国)

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec.11, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


千葉視察総合目次

隠居・観測・測量  一次測量(蝦夷地) 二次測量(伊豆・東日本)
三次測量(東北・日本海)、四次測量(東海・北陸)
五次測量(近畿・中国)、六次測量(四国)
七次測量(九州一次)、八次測量(九州二次)
九次測量(伊豆諸島)、十次測量(江戸府内) 
地図作成作業と伊能忠敬の死
地図の種類・特徴・精度、測定方法等
伊能忠敬記念館  伊能忠敬年表
参考・芝丸山古墳と伊能忠孝記念碑
参考・忠孝測量の碑と星座石
参考・伊能忠敬九十九里記念公園
参考・伊能忠敬参照文献一覧

伊能忠敬

第五次測量(近畿・中国)

西国測量計画


 至時は元々、忠敬には東日本の測量をまかせ、西日本は間重富に担当させる予定でいました。しかし至時の死後に天文方となった景保は当時19歳と若く、重富が景保の補佐役に当たらなければならなくなったため、西日本の測量も忠敬が受け持つことになりました。

 西日本の測量は幕府直轄事業となったのです。そのため、測量隊員には幕府の天文方も加わり人数が増えました。また、測量先での藩の受け入れ態勢が強化され、今まで以上の協力が得られるようになりました。

 当初の測量の予定は、本州の西側と四国・九州、さらには対馬、壱岐などの離島も含めて、33か月かけて一気に測量してしまおうという大計画でした。しかし実際は、西日本の海岸線が予想以上に複雑だったこともあって、4回に分けて、期間も11年を要することになります。

測量


高輪大木戸跡
出典:Wikimedia Commons

 文化2年(1805年)2月25日、忠敬らは江戸を発ち、高輪大木戸から測量を開始しました。隊員は16人、隊長の忠敬は60歳になっていました。

 東海道を測量しながら進み、3月16日に浜松に到着、浜名湖周辺を測りました。さらに伊勢路に入ると2手に分かれて、沿岸と街道筋の測量をおこないました。

 4月22日、伊勢国の山田(現・伊勢市)に到着し、この日の夜、経度を測定するため、木星の衛星食を観測しました。木星衛星食の観測は5月6日から8日にかけて、鳥羽でも行ないました。

 6月17日からは紀伊半島の尾鷲付近を測量しましたが、地形が入り組んでいたため作業は難航しました。さらに測量隊から病人も相次いだのです。

 その後、紀伊半島を一周し、8月18日に大坂に着きました。大坂では12泊し、間重富の家族とも接触しました。また、測量隊のうち市野金助ら3人は病気を理由に帰府しました。ただし幕府下役である市野の離脱については、忠敬の内弟子、あるいは忠敬本人の測量方針と見解の相違があったためではないかとも言われています。

 閏8月5日、一行は京都に入りました。これまでの測量で予想以上に日数を費やしてしまっていたので、3年で西日本を測量するという計画は成し遂げられそうにありませんでした。忠敬は江戸の景保に手紙を出し、計画の変更と隊員の増員を願い出ました。江戸とは何度か書状のやり取りをしながら37日間かけて琵琶湖を測量しました。

 結局測量計画は変更され、中国地方沿岸部を終えたらいったん帰府することになりました。また人数も2名増員されました が、瀬戸内海の海岸線は複雑で、家島諸島の測量にも日数を要したため、さらに2名の増員を要請し、一行は岡山で越年することになりました。

 文化3年(1806年)1月18日、岡山を出発し、瀬戸内海沿岸および瀬戸内海の島々を測量しました。測量にあたっては地元の協力も得られました。瀬戸内海の島々を多くの舟と多くの人数で測量している様子を描いた絵巻『浦島測量之図』が残されています。1月28日に福山、2月5日に尾道、3月29日に広島に到着しました。

 4月30日、秋穂浦(現山口市)まで測量を進めた忠敬は、ここでおこりの症状を訴え、以後、医師の診療を受けながら別行動で移動することになりまし。一行は下関を経て6月18日に松江に着き、ここで忠敬は留まって治療に専念しました。その間に隊員は三保関(現松江市美保関町)から隠岐へ渡り、測量を終えてから三保関に戻り、8月4日に松江で忠敬と合流しました。

 忠敬の病状は回復し、松江から再び山陰海岸を測り始めました。しかし病気の間に隊員の統率は乱れ、隊員は禁止されている酒を飲んだり、地元の人に横柄な態度をとったりしていました。これは幕府の耳にも入っていたため、10月、景保から戒告状が届けられました。

 一行はその後若狭湾を測量し、大津、桑名を経て11月3日に熱田(現・名古屋市熱田区)に着きました。熱田からは測量は行わず東海道を江戸へ向かい、11月15日に品川に到着ました。

測量後

 測量後、忠敬は景保と相談し、隊規を乱した測量隊の平山郡蔵、小坂寛平の2名を破門にし、3名を謹慎処分にしました。

 また、弟子とともに地図の作製や天体観測をおこない、今回の地図は文化4年12月に完成しました。

 今回の測量の経験から、忠敬は「長期に及ぶ測量は隊員の規律を守る点で好ましくない」と感じました。そこで次回の測量は四国のみにとどめることにしました。

第六次測量(四国)

 文化5年(1808年)1月25日、忠敬らは四国測量のため江戸を出発しました。江戸から浜松までは測量せずに移動し、浜松から御油(現豊川市)までは気賀街道を通って測量しました。御油から先はまたほとんど測量をおこなわず、2月24日に大阪に着きました。

 3月3日、淡路島の岩屋(現・淡路市)に着き、ここから島の東岸を鳴門まで測り3月21日に徳島に渡たりました。そして四国を南下し、4月21日に室戸岬に着き、4月28日、赤岡(現・香南市)で隊を分け、坂部貞兵衛らに、伊予国と土佐国の国境まで縦断測量をおこなわせました。そして4月29日に高知に着きました。


大日本沿海輿地全図 四国全図
出典:

 その後も海岸線を測量し、8月11日に松山に着きました。ここからも引き続き海岸線を測りつつ、加えて瀬戸内海の島々も測量し、さらに川之江(現・四国中央市)からは再び坂部に四国縦断測量を行なわせました。このように、海岸線だけでなく内陸部も測らせたのは、測量の信頼性を高めるためです。10月1日、塩飽諸島で日食を観測し、高松を経て、鳴門から淡路島に渡り島の西岸を測量、11月21日に大坂に戻りました。

 大坂で、病気の伊能秀蔵を江戸に帰し、ここから法隆寺、唐招提寺、薬師寺、東大寺、長谷寺といった社寺を回りながら奈良・吉野の大和路を測りました。その後伊勢を経由して帰路につき、文化6年(1809年)1月18日に江戸に戻りました。

 今回の測量では秀蔵が途中で離脱し、また忠敬自身も病気に罹いましたが、それ以外は大きな問題はなく、隊員の統率もとれました。測量作業においては藩の協力も多く得られ、測量のために新たに道を作ったところもあったほどです。


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