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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

伊能忠敬
(第九次測量、伊豆諸島)
(第十次測量、江戸府内)

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec.11, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


千葉視察総合目次

隠居・観測・測量 一次測量(蝦夷地) 二次測量(伊豆・東日本)
三次測量(東北・日本海)、四次測量(東海・北陸)
五次測量(近畿・中国)、六次測量(四国)
七次測量(九州一次)、八次測量(九州二次)
九次測量(伊豆諸島)、十次測量(江戸府内) 
地図作成作業と伊能忠敬の死
地図の種類・特徴・精度、測定方法等
伊能忠敬記念館  伊能忠敬年表
参考・芝丸山古墳と伊能忠孝記念碑
参考・忠孝測量の碑と星座石
参考・伊能忠敬九十九里記念公園
参考・伊能忠敬参照文献一覧

伊能忠敬

坂部と景敬の死

 五島列島では、忠敬率いる忠敬隊と、副隊長の坂部貞兵衛率いる坂部隊に分かれ、北から南に向かって測って行きます。

 しかし6月24日ごろから坂部の体調は思わしくなく、6月26日、日ノ島にいた坂部は忠敬に宛てて、体調が良くないので福江島に渡って服薬したいと手紙をつづりました。27日、坂部は福江で治療に専念しましたが、治療は実らず、7月15日に死亡しました。

 忠敬は16日に両隊を呼び寄せ、葬儀をおこないました。忠敬は坂部の死について、鳥が翼を取られたようだと述べ、長い間落胆を隠せなかったのです。1か月後に九州に戻った時、ようやく失敗した隊員を叱るようになったので良かった、といった内容の手紙を内弟子が書き残しています。

 さらに、坂部の死に先立つ6月7日、佐原にいた忠敬の長男の伊能景敬も死去していました。忠敬の娘妙薫は、忠敬に心配をかけまいとこの事を伏せ、8月12日に出した手紙にも、景敬は大病に罹っているとだけ書いていました。

 これを読んだ忠敬は、景敬が良くなればよいが難しいだろうとして、その上で、景敬が大病でも、孫の三治郎と銕之助がいるから安心だと妙薫に送り返しています。忠敬はこの時すでに景敬の死を察知していたと推定されています。

帰路

 九州本土に戻った忠敬一行は、8月15日に長崎に着き、長崎半島を一周してから小倉へ行き、本州に渡りました。そして中国地方の内陸部を測量しながら東に向かい、広島、松江、鳥取、津山、岡山を経由して、姫路で越年しました。

 翌文化11年(1814年)、引き続き内陸部を測量しながら進み、京都を経由し、3月20日四日市に着きました。ここから北上し、岐阜、大垣、山を通過し、古川から反転して野麦峠を越えました。さらに松本に出て善光寺に参詣し、反転して飯田まで南下したところで再び北上し、中山道を江戸に向かいました。5月22日、板橋宿に到着しました。

第九次測量(伊豆諸島)

 忠敬がこれまで住んでいた深川黒江町の家は、地図の作成作業には手狭となっていました。そこで忠敬は文化11年(1814年)5月、かつて桑原隆朝が住んでいた八丁堀亀島町の屋敷を改修し、6月からここに住むことにしました。

 文化12年(1815年)4月27日、測量隊は伊豆七島などを測量するため、江戸を出発しました。ただし、下役や弟子の勧めもあって、高齢の忠敬は測量には参加しませんでした。

 永井甚左衛門を隊長とした一行は、下田から三宅島、八丈島の順に渡り測量しました。しかし八丈島から三宅島に戻ろうとしたときに黒潮に流されてしまい、三浦半島の三崎(現三浦市)に流れ着きました。三崎から御蔵島へ行き、三宅島を経由して神津島、新島、利島と測量を続け、いったん新島に戻りました。ここから大島に向かう予定でしたが、下田近くの須崎に流れ着きました。そこから大島へ行き、測量後に下田に戻り、周辺を測量しながら帰路につき、文化13年(1816年)4月12日に江戸に着いきました。

第十次測量(江戸府内)

 第九次測量と並行して、江戸府内を測る第十次測量を行った。

 これまでの測量では、たとえば東海道では高輪大木戸を、甲州街道では四谷大木戸を起点としていました。今回の測量は、各街道から日本橋までの間を測量して、起点を1つにまとめることが目的です。

 測量は71歳になった忠敬も参加し、文化12年(1815年)2月3日から2月19日まで行われました。

 測量を終えたところで、忠敬は、昔に測った東日本の測量は西日本の測量と比べて見劣りがすると感じていました。そこで景保と相談し、もう1度詳しく測り直す計画を立てました。しかし幕府はこれを採用せず、代わりに江戸府内の地図を作るよう命じました。

 この測量は文化13年(1816年)8月8日から10月23日まで行われました。忠敬も時々指揮を執りましたが、おそらく作業の大部分は下役と弟子たちが行っていたと推定されています。

地図作成作業と死


上野源空寺にある伊能忠敬墓。
左側に高橋至時・景保の墓が並んでいます
出典:Wikimesia Commons

 測量作業を終えた忠敬らは、八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業にとりかかりました。文化14年(1817年)には、間宮林蔵が、忠敬が測量していなかった蝦夷地の測量データを持って現れました。また同年、忠敬は破門していた平山郡蔵を許し、作業に参加させました。


蝦夷全図
出典:」伊能忠敬記念館

 地図の作成作業は、当初は文化14年の終わりには終わらせる予定でしたが、この計画は大幅に遅れました。これは、忠敬が地図投影法の理論を詳しく知らなかったため、各地域の地図を1枚に合わせるときにうまくつながらず、その修正に手間取ったためと考えられています。

 忠敬は新しい投影法について研究し、資料を作り始めましたが、文化14年秋頃から喘息がひどくなり、病床につくようになりました。それでも文化14年いっぱいは、地図作成作業を監督したり、門弟の質問に返事を書いたりしていましたが、文政元年(1818年)になると急に体が衰えるようになりました。そして4月13日、弟子たちに見守られながら74歳で生涯を終えたのです。

死後

 地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められました。

 文政4年(1821年)、『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成しました。7月10日、景保と、忠敬の孫忠誨(ただのり、幼名三治郎)らは登城し、地図を広げて上程しました。そして9月4日、忠敬の喪が発せられました。


『大日本沿海輿地全図』
出典:」伊能忠敬記念館

 忠誨は佐原と江戸を行き来しながら、景保らの指導も受け、さらに佐原の伊能家の跡継ぎとしても期待されていましたが、文政10年(1827年)、21歳で病死しますた。忠誨の死により、忠敬直系の血筋は途絶えました。また測量隊の中には、忠敬が測量し得なかった霞ヶ浦などを測量しようという意見もありましたが、忠誨の死によりその案も立ち消えとなりました。

 忠敬は死の直前、私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだ後は先生のそばで眠りたいと語りました。そのため墓地は高橋至時・景保父子と同じく上野源空寺にあります。また佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓があります。


千葉県香取市の観福寺にある伊能忠敬の墓
出典:Wikimedia Commons


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