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中津の歴史探訪

A中津の寺町

青山貞一

掲載日:2008年7月13日
独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


●中津の寺町

 中津では12の寺で構成される寺町も有名だ。福沢諭吉記念館から徒歩で行ける。 寺は時代区分毎に示すと以下の通り。

 黒田入封以前: 地蔵院、安随寺
 黒田藩時代:   合現寺、大法寺、円応寺、西蓮寺
 細川藩時代:   普門院、宝蓮妨、本伝寺
 小笠原藩時代: 円竜寺、浄安寺
 奥平藩時代:   松巌寺

 ※黒田藩は、かの「黒田官兵衛」の藩である。後に長男の黒田長政が藩主となる。

 寺町では、毎年8月9日、「とうろうまつり」がある。

 その一環として七観音祭りがあり以下の順番で寺院巡りが行われている。

  ■第一番札所「普門院」
  ■第二番札所「松巌寺」
  ■第三番札所「合元寺」
  ■第四番札所「円応寺」
  ■第五番札所「円龍寺」
  ■第六番札所「浄安寺」
  ■第七番札所「東林寺」


中津の寺町の地図
出典:中津市役所


撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 中津は江戸時代から奥平十万石の城下町として栄え、武家屋敷や古寺が多数残っている。とりわけ奥平家の菩提寺でもある自性寺や赤い壁が境内を囲む合元寺などが名所としても知られている。

 寺町はゆっくり歩いても1時間もあれば12の寺すべてを参拝できる。

合元寺(赤壁寺)

 合元寺(ごうがんじ)は1587年(天正15)、黒田官兵衛孝高によって建立されました。
深紅に塗られた壁は城下町・中津の中でもひときわ強烈な印象を与え、別名・赤壁寺とよばれています。豊臣秀吉の時代、豊前の実力者だった宇都宮鎮房(しげふさ)が騙し討ちに遇い、この寺を宿舎にしていた家臣たちも全員討ち死。その時の血潮を浴びた門前の白壁は何度塗り替えても血痕が浮き出るため、ついに赤壁に塗り替えたといわれています。当時の激戦の様子は現在も境内の大黒柱に刀の痕が点々と残されています。


宇都宮鎮房(しげふさ)公

 鎌倉御家人だった関東の宇都宮信房の末裔(まつえい)で、豊前国築城(ついき)郡(福岡県)の城井谷(きいだに)に居住しており、城井鎮房ともいった。


赤い壁が境内を囲む合元寺
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


赤い壁が境内を囲む合元寺
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10



中津市による概要

 通称「赤壁」といわれるこの寺は、天正15年(1587年)、黒田官兵衛に従って姫路から中津に移り住んだ浄土宗西山派、開山空誉上人が開基したと伝えられています。 その後、天正17年(1589年)、黒田氏が前領主の宇都宮鎮房を謀略をもちいて中津城内で暗殺した際、その従臣らがこの寺を拠点として奮戦し最後を遂げ、その時の血が何度塗り替えても染み出てくることから、ついに赤色に塗り替えられるようになった、というのがこの赤壁の由来となっています。当時の激戦の様子は、寺の庫裏の柱に残る当時の刀傷からうかがい知れます。また、戦死した鎮房の家臣は合葬し寺内の延命地蔵菩薩堂に祀りたてられています。

【所在地】 大分県中津市973(寺町)

 中津の寺町は地図にあるように、幹線道路から離れ車を締め出した一角に集中している。そんなこともあり、白壁や赤壁のある路地をゆっくり歩くことができる。

 ひとつひとつの寺院に入り参拝することもでき、まさに江戸時代の悠久の時間を堪能できるのだ。それぞれの寺院にはそれぞれの由緒、歴史的経緯があり、それを住職に伺うのもよいだろう。


中津の寺町にはゆっくりとした悠久の時間が流れる!
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


中津の寺町にはゆっくりとした悠久の時間が流れる!
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


つづく