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中津の歴史探訪

C中津隊、増田宗太郎誕生の地

青山貞一

掲載日:2008年7月13日

●中津隊、増田宗太郎誕生の地

 福沢諭吉記念館の隣に、中津隊長で有名な増田宗太郎生誕の碑が小さな公園のなかにある。 以下は主にWikipediaと中津市史跡説明からのもの。

 増田 宋太郎(嘉永2年2月〜 明治10年9月)は、中津藩下士増田久行の嫡男として生まれる。母は九州国学の三大家の一人、渡辺重名(しげな)の娘。父は福沢百助の妻のいとこである。

 宗太郎は国学を学び、攘夷思想をもっていた。福澤諭吉の再従弟に当たり、住まいも近所で親しい交際があったが、明治3年(1870年)、福澤が帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てた。だが、福澤は来客した服部五郎兵衛と夜通し飲み明かしたためこの計画は失敗している(異説もある)。

 明治維新後、攘夷思想を改め自由民権運動に参加する。西南戦争に薩軍側として従軍、中津隊を率いた。和田峠の戦いで敗れた後、西郷が解軍の令を出し、故郷へ帰る隊もある中、増田宗太郎は西郷に付き従った。



出典:中津市指定文化財の掲示板


西南役中津隊士の祈念碑
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


西南役中津隊長、増田宗太郎先生誕生の地の祈念碑
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


西南役中津隊
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


●中津の古い町並み

 増田宗太郎先生誕生の地の祈念碑、福沢諭吉記念館から中津城に行く途中の土塀をもった古い民家。往時の中津を偲ばせる。


中津城に行く途中の土塀をもった古い民家
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 中津からは多くの実業家が排出されている。上の写真を歩くと、和田豊治(明治・大正期の実業家、貴族院議員)の史跡に出会う。

 和田は、村上田長の書生となり、中津市学校に通学、さらに慶應義塾に学んだ。その後、アメリカの甲斐商店に勤務し、帰国後、富士紡績などで活躍、のち社長になる。郷土の中津に和田奨学資金を設けている。


 和田以外にも、中上川彦次郎朝吹英二磯村豊太郎伊與田光男ら多くの実業家が中津から輩出されている。


撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


●中津城

 中津の城下町としての歴史は、1587年、黒田孝高が豊臣秀吉から豊前6郡(京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐)の12.5万石と馬ヶ岳城(福岡県行橋市)が与えられた。

 後に、拠点を山国川河口部に移し中津城を築城したところから始まる。市街地がほぼ完成したのは1600年代中頃とされる。城主は後に細川氏・小笠原氏を経て、1717年(享保2年)に奥平氏が入封し明治維新を迎えることになる。

 中津城は梯郭式の平城。縄張りが扇形をしているため、「扇城」とも呼ばれている。中津城は、周防灘(豊前海)に臨む山国川河口に築城され、堀には海水が引き込まれている。いわゆる水城であり、今治城・高松城と並ぶ日本3大水城の一つである。

 現在の城跡には下の写真にあるように、5重5階の天守と2重の櫓が存在する。これは昭和39年(1964年)、萩城天守を模して薬研堀端の隅櫓跡に観光開発を目的として鉄筋コンクリート造で建てられた、いわゆる模擬天守と呼ばれるものである。

 奥平昌信氏が構想し、東京工業大の藤岡通夫教授が設計したもの。天守閣の高さは23m。竣工から度々改変が行われている。下に城の諸元を示す。

通称 扇城
城郭構造 梯郭式平城
天守構造 不明
模擬(鉄筋コンクリート構造・1964年)
築城主 黒田孝高
築城年 天正15年(1587年
主な改修者 細川忠興
主な城主 黒田氏、細川氏、小笠原氏、奥平氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、堀
指定文化財  なし
再建造物 模擬天守、二重櫓、塀


中津城本丸
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 下の説明は、最後の城主となった奥平氏(10万石)の解説。

 

 中津城は、今治城・高松城と並ぶ日本3大水城の一つで有名だが、城の背後には下の写真のように中津川がゆったりと流れる。中津川の河口は周防灘の海に面しており、干潮河川となっている。満潮時には中津川のお堀に海の水が入ってくる。


お城の背後にはこのような風景が。北門橋が見える。
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


中津城旧地図
出典:中津市


撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 ※中津城の城下町、城戸口、旧町名の詳細

◆中津藩史

 中津藩は、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後、黒田孝高が入部し、12万3000石(一説には16万石)を領有した。その後、関ヶ原の戦いで戦功のあった子の長政が慶長5年(1600年)、筑前福岡藩に52万石で加増移封された。

 代わって同年、同じく関ヶ原の戦いで東軍方に付いた細川忠興が丹後宮津より39万9000石で入封し、江戸期の中津藩が成立した。忠興は慶長7年(1602年)、藩庁を小倉城に移して小倉藩となる。中津城は支城となり城代が置かれた。寛永9年(1632年)、第2代藩主・忠利は肥後熊本藩に移封となった。

 同年、播磨国明石藩より小笠原忠真が小倉藩主として小倉城に入り、豊前北部15万石を領した。支城であった豊前中津城には忠真の甥・長次が播磨龍野藩より8万石で入封し再び中津城が藩庁となった。元禄11年(1698年)、第3代藩主・長胤は失政・日常の不行跡を咎められ藩領没収、本家の小倉藩・小笠原家へ預かりとなった。しかし「祖先の勤労」(『徳川実紀』)により弟の高円が半減の4万石をもって後を継いだ。享保元年(1716年)、第5代藩主・長?が7歳で夭逝したため、その弟・長興が播磨安志藩(1万石)に移封立藩となった。

 享保2年(1717年)、奥平昌成が丹後宮津藩より10万石で入封。以後、明治4年(1871年)の廃藩置県まで9代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・小倉県・福岡県を経て大分県に編入された。

 奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『解体新書』を著した前野良沢、下級藩士出身の福澤諭吉がよく知られている。西南戦争の時には旧中津藩士によって中津隊が結成され、西郷軍に参加した。

参照:Wikipedia


 ところで、中津城の場内の一角に、下の高輪地蔵があった。

 私たちの環境総合研究所は、かつて東京都港区高輪にあったこともあり、何で「高輪」なのかと不思議に思った。

 以下は高輪地蔵の由来である。江戸時代にもこのような正義感ある立派な人物がいたことがわかった!





中津城内にある高輪地蔵
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 下の2枚の写真は、中津城の場内にいた猫である。

 物怖じせず、しっかりとポーズをとってくれた!先祖は中津の武士が飼っていたネコかな? お行儀が良い!


中津城内にいたにゃんこ、その1
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


中津城内にいたにゃんこ、その1-2
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


中津城内にいたにゃんこ、その2
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


中津城内にいたにゃんこ、その2ー2
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 中津城の西側には、こんなモダンな教会も!

 いずれにしても、中津にはゆったりとした江戸時代の悠久の時間がそこかしこに漂っており、観光や視察を超えた時間を満喫できる。是非、近くまで行かれる方はお寄りいただきたい。


撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


つづく