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真夏の嬬恋村探訪
C門貝、それは上信両国
を結ぶ拠点

青山貞一 池田こみち

30 August 2010
独立系メディア「今
無断転載禁

●特集:真夏の嬬恋村探訪 2010.8.17-8.21
@パノラマラインとウルグアイラウンド  
Aパノラマラインからの秀逸な自然景観
Bひっそり鄙びた中山間地、門貝 
C門貝、それは上信両国を繋ぐ拠点
D山伏の拠点、門貝の熊野神社
E干俣地区の小さな観音堂、円通殿   
Fパノラマライン北の4つの硫黄鉱山跡
G吾妻川の特異な地形ー断崖と渓谷

 ところで、私たちが<門貝>に関心を抱いたのは、その地名である門貝である。

 海に近くない上州(群馬)なのに、<>という漢字がついているのははぜかということにあった。

 東京に帰ってから調べたところ、元嬬恋村郷土資料館の館長、松島榮治氏による講演録がWebにあり、この疑問について答えてくれた。以下に紹介しよう。

 
「門貝の地名は、“カドのカイ”で、カドは出入口、カイはカイトのカイで小集落を意味する。従って、カドカイは、他地域との出入口にある小集落ということであろう。事実、14世紀に書かれた『神道集』には、「昔、毛無道は、奥の大道」とか「碓井・毛無の二峰に関を構え」などの記事がみられる。万座川を逆上り、門貝を経由する“毛無道”は、上州と信州方面を繋ぐ道として、重要であった。門貝はその上州側の拠点的集落としての機能を果たしていたものとみられる。 ...中略.. 毛無道の道筋にあたる門貝の地は、通行上の要所でもあり、加えて、吾妻山(四阿山)や白根山など深山幽谷の霊地を控えていた。そこに、山伏の修業の拠点が設置され、やがて、熊野神社が分社されたのであろう。神社の背後の岩窟遺構や入口の巨石に刻まれた仏種子は、その隆盛を物語っている」 松島榮治先生講演録より

 この講義録には後に紹介する熊野神社についての詳細な記述もあるが、まず、私たちが注目したのは、門貝が
「万座川を逆上り、門貝を経由する“毛無道”は、上州と信州方面を繋ぐ道として、重要であった。門貝はその上州側の拠点的集落としての機能を果たしていたものとみられる」という部分であった。

 というのも、私たちは以前から江戸時代に上州と信州を行き来するルートに関心があったからだ。たとえば、嬬恋村にはその昔、信州(長野)から上州(群馬)を経由し江戸に通ずる信州街道があった。現地で見ると、実は信州街道は現在もある。

 信州街道の上州側の最西端は今も残る有名な鳥居峠である。上州の西部で信州街道は、鳥居峠から大笹を通り、応桑から万騎峠を通り、倉渕、安中、高崎、藤岡へと続く。余談だが、今回の旅では、旧倉渕村の信州街道沿いにある倉渕温泉にも入った。

 私たちは2年前の秋、現在の北軽井沢の北にある応桑から万騎峠を経由し、薬師温泉に通ずる道を車で走破した。現在、その信州街道は、傾斜崩壊などで通行禁止となっている。このように <信州街道>は間違いなく上州と信州をつなぐ主要なルートであったに違いない。

 
信州街道にある万騎峠の由来を書いた標識
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10 2008.9.13

 下はグーグルアースで見た<門貝>です。自由に動かせます! クリックすることで地形図、普通の地図、衛星画像なども見れます。お試しください!


大きな地図で見る

 詳しくは以下の論考をご覧いただきたい。
青山貞一:初秋の信州街道・秘湯探訪 B信州街道と万騎峠

 では、江戸時代において上州と信州を繋ぐ他の主要な街道はと言うと、有名な<中山道>があり現在もある。中山道は江戸から高崎、そして横川、碓氷峠を経由し信州の沓掛宿(現在の軽井沢)に向かう主要な街道であった。

 上州と信州を結ぶルートには、鳥居峠を通る<信州街道>、碓氷峠を通る<中山道>以外に内山峠を通る<下仁田街道>、十国峠を通る<十国街道>がある。さらに鳥居峠の手前で鹿沢を経由し湯の丸峠を行くルートもある。もっぱら江戸時代には、この<湯の丸峠>ルートが存在したかどうかは不明である。

 上記のルート、街道はいずれも<信州街道>より南のルートである。

 私たちのこの分野での最大の関心は、江戸時代に上州と信州を行き来する上で<信州街道>よりさらに北に位置するルートがあったかどうかにある。周知のようにこのルートは、1500m〜2500mの急峻な地形と火山活動が活発な山岳が多数あり、その山越えは容易ではなかったからである。

 現在、群馬側から長野側にゆくための群馬県西部の北側ルートとしては、長野原で国道145号線から国道292号線にでて草津まで登り、その後、万座、横手山、志賀高原を経由し長野県の高山地方に行く道がある。このルートは標高、地形、地質的に非常に厳しい路線であり、現在の土木技術でやっと完成した火山ルートである。ここでは日本では珍しい景観が眺望できるが、江戸時代には存在していなかった。

 話を前に戻すと、松島榮治氏の講演録に頻繁に出てくる門貝を経由する<毛無峠>は、まさに上州北部と信州北部を結ぶ、標高1500〜2000mの難所のひとつとなっている峠である。<毛無峠>という地名は現在も残っており、毛無峠そのものも現存する。そして<毛無峠>は群馬県(上州)にある。

 確かに<毛無峠>という地名も毛無峠そのものも現存するのだが、現在、<毛無峠>には長野県(信州)の高山村側から国道112号線で行けるものの、群馬県(上州)側からは道がなく行けないのである。何と、列記として群馬県(上州)に<毛無峠>が現存しながら、群馬県側からアクセスできないのである。

 だが松島榮治氏によれば、「万座川を逆上り、門貝を経由する“毛無道”は、上州と信州方面を繋ぐ道として、重要であった。門貝はその上州側の拠点的集落としての機能を果たしていたものとみられる」とあるので、現在でも不可能な上州と信州を結ぶ北ルートを江戸時代、多くの人々が行き来していたことになる。そして門貝地域は、上州側の拠点であり、おそらく宿を含めさまざまな機能を果たしていたのである。

 これにはびっくりした。

 私たちは、江戸時代の上記の事実を知らずして、今回、北軽井沢の別荘に滞在中に何度となく<門貝>の林道だけでなく、国道112号線を車で北上してみた。

 だが、林道は門貝北部の万座川上流で行きどまりとなり、国道112号線も上砥草山の北側で行きどまりとなっていた。

 それより北、すなわち<毛無峠>を経由し長野県(信州)側には行けなかったのである。

 下の図は、その様子を図示している。西窪→門貝→万座山に向かう林道コース、大笹→干俣→上砥草山の北側の国道112号線コースともに、上砥草山の北側で行きどまりとなっていたのである。


図1 林道コースと国道112号線コース

 林道コースは、門貝編で紹介したので、ここでは、国道112号線コースを紹介する。国道144号線を大笹まできて干俣の以下の看板がある場所で右折し、国道112号で上砥草山の北側を目指す。


国道144号線を干俣で右折し国道112号線に入る

撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月21日


国道112号線で上砥草山の北側を目指す
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月21日


途中牛首川を横切る
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月21日


国道112号線の上砥草山近く。次第に山深くなってきた
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月21日

 結局、国道112号線コースは上砥草山の北側で行きどまりとなり、左折してパルコール嬬恋側に曲らざるを得なかった。

 ....

 ところで松島榮治氏の解説が事実なら、江戸時代、信州街街道、中山道、下仁田街道、十国街道に加え、上州と信州を繋ぐ<毛無道>という最北部ルートが存在したことになる。このルートは江戸側から信州に向かう場合、鳥居坂手前までは<信州街道>を使うことになるが、その後は、上砥草山そして<毛無峠>を超え、破風岳近くを通り、信州北部の高山村に通じていたことになる。

 おそらく使われていたルートは、現在の国道112号線の群馬側ルートではなく、門貝を通る林道コースであったと思われる。実際、そのルートは現在でも<毛無街道>と呼ばれている。

 現代でも地形、地質、気象などさまざまな観点から道路のルート選定が困難な場所をこともあろうか江戸時代に多くの人々が徒歩や馬で行き来していたとすると驚き以外のなにものでもない。

 実は、パノラマラインの北側には明治時代から昭和まで4つの硫黄鉱山があった。東から西に、白根硫黄鉱山、石津硫黄鉱山、吾妻硫黄鉱山、小串硫黄鉱山である。いずれも閉山しているが、その跡地をこの9月に現地視察する計画を立てていた。下はそのプランの一部(地図)である。


図2 群馬県北西部(嬬恋村)にあった4つの硫黄鉱山

 何と、小串鉱山は<毛無峠>にあったのである。図1と図2を見比べてもらえば、位置関係が良く分かる。実際に調べて見ると小串硫黄鉱山は、<毛無峠>にある。

 図3は、国土地理院の地図であるが、小串鉱山は、<毛無峠>のすぐ隣にあり、周辺には破風岳、土鍋山がある。いずれも1800〜1900mの高山である。


図3 小串鉱山の周辺図
出典:国土地理院地図

 さらに図4は拡大したものだが、左上にあるつづら折りの道路の名称は国道112号線であった。この国道112号線は<毛無峠>の上がりきったところにある小串鉱山でゆきどまりとなっていたのである。


図4 小串硫黄鉱山拡大図
出典:国土地理院地図

 これは図5の地形図で見るとよく分かる。国道112号線は毛無峠の先にあるつづら折りの先端(約1600m)で行きどまりとなっている。



図5 毛無峠部分の地形図 
出典:グーグルマップより作成

 これはどういうことか?

 そこで同じ国道112号線の群馬側と長野側が入っている地図を見てみたのが図6である。小さくて見づらいが、群馬県側にも長野県側にも国道112号線があるものの、
毛無峠〜上砥草山の区間は不通となっていたのである。不通というのは正確ではなく、道路ができていなかったのである。

 今時こんなことがあるのかと目を疑ったが、この不通区間を江戸時代、ひとびとは歩いて渡っていたのである。つまり、<毛無街道>として、江戸時代、信州北部と長野県北西部を繋ぐ貴重なルートとして<毛無峠>ルートがあったことになる。そして<門貝>地区が両者を繋ぐ主要拠点であったことになる。

 また毛無峠周辺の河川を調べるといずれも万座川の支流の最上流であることも分かった。

毛無峠(けなしとうげ)
 長野県上高井郡高山村と群馬県吾妻郡嬬恋村を跨ぐ峠。上信スカイラインから繋がる、県道112号の終着点に存在し、標高1823m。「毛無」という名前のとおり、辺りには木々が少なく荒涼としている。これは、常に吹きつける強風のためと言われている。霧が発生しやすいが、晴れた日には風景が見られる。

出典:Wikipedeia


図6 群馬側と長野側の間(毛無峠〜上砥草山)が
    不通となっている国道112号線

 9月に行く小串硫黄鉱山跡地の現地視察計画では、白根→万座ルートを行く場合でも、いったん長野県側に入り、国道112号線を使って群馬県嬬恋村の北西山岳にある毛無峠を目指すことになる。 

 このように、現在は嬬恋村の中山間地の100世帯もない<門貝>集落だが、江戸時代は上州と信州北部を行き来ひとびとにとって、きわめて重要な拠点であった。このようなことは日本各地にあることだが、この種のことに思いをはせるのは実に楽しい。


つづく