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真夏の碓氷峠遺産探訪

信越本線碓氷線 D技術

青山貞一 池田こみち

29  August 2010
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁

<目次>
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 @歴史  
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 A橋梁 
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 Bトンネル 
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 C変電所
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 D技術 
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 E設計 
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 F文化 
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 G提案 
真夏の碓氷峠遺産探訪〜信越本線碓氷線 H補遺

◆旧信越本線(碓氷線区間)の橋梁と隧道(トンネル)の位置◆ 
  図中、左側が軽井沢側、右側が横川側


<凡例>
 ■(オレンジ色の太線)碓氷線の軌道区間
 (赤い点)碓氷線の橋梁区間、全部で18か所ある。
          図中にはないが小さな橋梁はカルバートと言われ21カ所ある
 黒の点線 碓氷線の隧道(=トンネル)区間、全部で26カ所ある。
 黒の太線 旧国道18号線の碓氷峠区間、図中のCは道路のカーブ番号

 ここでは、旧信越本線の碓氷線にかかわる技術、設計、工事などについて現地で入手した資料を中心に調べてみた。まず、鉄道技術から。

◆碓氷線建設以前の「馬車鉄道」

 我が国の鉄道の歴史においても碓氷峠を越えることは早くから重要視され、上野駅-横川駅間が明治18年((1885年)に、さらに軽井沢駅-直江津駅間が明治21年(1888年)に開通すると当区間が輸送のネックとなり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させる事が強く望まれた。

 それ以前にあっては、碓氷馬車鉄道という馬車鉄道が国道18号上に敷設されていた。だが、馬車鉄道では輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた。

 下の写真は、碓氷馬車鉄道と建設工事中の第五隧道(トンネル)である。

 明治24年(1891年)、めがね橋下を撮影した貴重な写真である。碓氷鉄道ができるまで、横川と軽井沢間はこの碓氷馬車鉄道がつないでいたことになる。下の写真からは馬車鉄道は5両あることが分かる。


碓氷馬車鉄道。第五隧道(トンネル)工事現場近く
旧国道18号線付近
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15


碓氷馬車鉄道と建設工事中の第五隧道(トンネル)付近
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

 以下に碓氷馬車鉄道についての詳細を示す。この馬車鉄道は、その後の碓氷線の軌道、橋梁、トンネル工事などで必要となるレンガなどの資材も運んでいる、。

■碓氷馬車鉄道

 横川駅 - 軽井沢駅間には碓氷峠という古くからの難所があり、この区間は直線距離にすると10kmにも関わらず標高差が552mもあるなど、鉄道にとっては非常に急勾配となるもので、工事も長期にわたっての難航が予想された。

 そのため、暫定的に両駅間を馬車鉄道によって結び、東京 - 直江津間の連絡と碓氷峠の鉄道敷設に要する資材輸送手段を確保しようと考えられた。これにより、国道18号上に線路を敷設することで開業したのが「碓氷馬車鉄道」である。

 旅客、貨物が好調で車両も増備したが、急勾配、急曲線のため線路や車輪の摩耗も激しく、馬匹も2頭引きの上、片道2回交代するなど経費がかかっていた。

歴史
1887年(明治20年)
  7月 前橋市の有志2人が発起人となって会社設立。
     横川 - 坂本間敷設特許認可
 12月28日 簡易馬車鉄道敷設の工事認可
1888年(明治21年) 坂本 - 軽井沢間敷設特許認可
  9月5日 横川 - 軽井沢間線路敷設完了、営業開始
1893年(明治26年)
  4月1日 官営鉄道線開業に伴い廃止

駅名
 横川 - 坂本 - 碓氷橋 - 熊ノ平 - 中尾橋 - 軽井沢
 碓氷橋、中尾橋両所で馬の継替えをした。

客車
 客車は下等車は定員10名で鉄製。長さ6尺(約1.8メートル)、幅4尺5寸(約1.3メートル)。また、定員5名の上等車もあり、下等車は馬2頭引き、上等車は1頭引きであった。貨車は長さ3フィート3インチ(約1メートル)、幅2尺4寸(約0.7メートル)。フランスのドコービル社製であった。

出典:Wikipedia

◆「アプト式」鉄道技術

 碓氷峠の場合、中央線で用いられたスイッチバックやループ線などを設ける方法では対処できないため、現地視察したドイツのハルツ山鉄道を参考にアプト式(アブト式)のラックレールを用いる事を提案した。

 そして結果的に提案し採用されたのは、仙石貢と吉川三次郎のプランである。

■ラック式鉄道(Rack Railway)(歯軌条鉄道)

 2本のレールの中央に歯型のレール(歯軌条、ラックレール)を敷設し、車両の床下に設置された歯車(ピニオン)とかみ合わせることで急勾配を登り下りするための推進力と制動力の補助とする鉄道のことである。特殊な分岐器が必要とされる場合もある。

 ラック式鉄道に対して車輪とレールと摩擦力(粘着力)によってのみ駆動と支持を行う通常の鉄道を粘着式鉄道と呼ぶが、この方式では80から90‰(パーミル)の勾配が限界とされる。

 ラック式鉄道は、1812年にイギリスのen:Matthew Murrayによって製作されたミドルトン鉄道の機関車で初めて採用された。当時は急勾配を登る為ではなく、機関車の空転防止が目的だった。この問題は、機関車の重量を増やす事で解決された。ラック&ピニオン式はJohn Blenkinsopが1811年に特許(No 3431)を取得した。

出典:Wikipedia

 下の図はアプト式の根幹技術、ラックレールのイメージ図である。


アプト式の根幹技術、ラックレールのイメージ図
出典:Wikipedia 


アプト式とラックレール
出典:Wikipedia


アプト式のラックレールに対応した列車の車輪と歯車(ギア)
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

アプト式(Abt system)

 ラック式鉄道の方式の一つである。カール・ロマン・アプト(Carl Roman Abt 1850-1933)が1882年に特許を取得した方式で、「アプト式」の名称は開発者の名前に因む。「アプト」はドイツ語読みで、アブト式ともいう。

 日本の営業用路線ではこの方式によるラック式鉄道しか存在しなかったため、ラック式鉄道そのものを「アプト式」と誤解して呼ぶ事がある。なおラック式鉄道にはアプト式の他にマーシュ、リッゲンバッハ、シュトループ、ロヒャー、フォンロールの各方式があり、いずれも現存している。

 数あるラック式鉄道のうち「アプト式」とは、2枚または3枚のラックレール(Rack-rail)およびピニオンギア(Pinion-gear)を位相をずらして設置する方式を指す。複数の歯の位相をずらす事により駆動力の円滑化および歯の長寿命化を図るとともに、常にピニオンのいずれかの歯がラックレールと深く噛み合っていることにより安全性の向上が図られている。

 日本では、信越本線の碓氷峠では3組のラックピニオンを120度ずらして使用していた。大井川鐵道井川線も3組のラックピニオンを使用している。

 碓氷峠はラックレールの位置が左右のレールより高く、大井川鐵道井川線は低いという相違がある。このため碓氷峠はキハ58系など一部の車両が通過できず、逆に大井川鐵道井川線は通過車両に制約がないものの分岐器がピニオンを避けるために特殊な構造となっている。

出典:Wikipedia

◆日本の幹線鉄道で最初の電化

 トンネル編で述べたように、26カ所にも及ぶ隧道(トンネル)の連続による煤煙の問題から、乗務員の中には吐血や窒息する者も現れた。実際、4名の隧道番(トンネル番)が殉職している。

 1911年に横川駅付近に火力発電所が設けられて1912年には日本で最初の幹線鉄道の電化が行われた。
 
 この電化により碓氷線の区間所要時間は80分から40分に半減し、輸送力は若干増強された。しかし、輸送の隘路であることは変わらず、「東の碓氷」は「北の板谷」、「西の瀬野八」などと並び、名だたる鉄道の難所として称された。

 1900年に大和田建樹によって作成された『鉄道唱歌』第4集北陸編では、碓氷峠の区間は以下のように歌われている。

19. これより音にききいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛は外にたぐいなし

20. くぐるトンネル二十六 ともし火うすく昼くらし いずれは天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ


 さらに『鉄道唱歌』と同じ年に作成された現在の長野県歌である『信濃の国』も、6番において以下のように碓氷峠を歌っている。

 吾妻はやとし 日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山 穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い

◆機関車技術 ED42型

 アプト式を支えるもうひとつの十な技術は、機関車である。

 当初、蒸気機関車で出発した碓氷線だが、深刻な煙害問題から幹線鉄道では我が国最初の電化が行われた。電化後の主要な機関車はED42型と言われている。

 そのED42形電気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身、鉄道省(後の運輸通信省)が製造した直流用電気機関車である。

 当初、急勾配区間用アプト式電気機関車としてEC40形が開発利用されtが、途中からその置き換え用としてED42型が導入された。


急勾配区間用アプト式電気機関車第一号のEC40形
ラックレールが見える
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

 基本設計はスイスから輸入したED41形を参考とし、1934年(昭和9年)から1948年(昭和23年)までの間に、日立製作所、東芝、川崎重工業、三菱重工業、汽車製造で28両が製造された。

 車体は前後とも切妻の箱形車体で、車体前後端にデッキが設けられている。運転台は坂下の横川寄りにのみ設けられた片運転台型である。前位側の屋根上に停車場構内で使用するパンタグラフを1基搭載する。本線上では第三軌条から集電するため、集電靴が片側2か所に設備されている。


ED42型機関車第一号機
碓氷峠鉄道文化むらで保存している
出典:Wikipedia

 形態的には、1 - 22の戦前形と23 - 28の戦時形に分類される。戦時形は材料、機器の代用化や車体工作の簡易化が行なわれ、外観上は外板の薄板化に窓隅や側面エアーフィルター枠の角形化、屋上モニタの廃止が目立っている。
 
 走行部のシステムは、モデルとしたED41形と基本的に同一であるが、元の構造が複雑だったこともあり一部の設計が変更された。電動機は、動輪用に2基、アプト式軌条のラックレールに噛み合わせる歯車駆動用1基の計3基が搭載されている。

 ラック台車(歯車用台車)は車体中央部に設けられ、動輪の第2軸、第3軸に荷重を分担して負担させるようになっている。走行用台車はボギー式となり、各台車のホイールベース間に電動機1基ずつが装架され、動力は側面のジャック軸から連結棒で各動輪に伝達される。

 その用途から一貫して横川機関区に配置、信越本線横川 - 軽井沢間において運用された。また1951年(昭和26年)からは急勾配区間での降坂時に電力回生ブレーキを使用可能なように機器が改造された。

 1963年(昭和38年)9月30日に横川 - 軽井沢間が全面的に粘着運転の新線に切替えられ、アプト式ラックレール区間を廃止したことで本形式は役目を終え、同年12月9日に全機が廃車、除籍されている。

 この間の1961年(昭和36年)10月1日からは、信越本線に初めて設定された特急列車「白鳥」の牽引も行なっている。

◆ED42型仕様

全長:12810mm
全幅:2950mm(集電靴を含めた全幅)
全高:3940mm
運転整備重量:62.52t
電気方式:直流600V(第三軌条方式、架空電車線方式併用)
軸配置:B-b-B
台車形式:―
主電動機:MT27形×3基
歯車比(動輪):20:93(1:4.65)
歯車比(歯輪):63:105×26:58(1:3.72)
1時間定格出力:510kW
1時間定格引張力:9300kg(14000kg)
1時間定格速度:13.5km/h
動力伝達方式:歯車1段減速、連結棒式(2段減速歯車式)
制御方式:非重連、抵抗制御(2段組み合わせ制御)
制御装置:電磁空気単位スイッチ式
ブレーキ方式:EL14A空気ブレーキ、電気ブレーキ(後に回生
  ブレーキ併用)、手用動輪用ブレーキ、手用ラック歯車用帯
  ブレーキ、空気式ラック電動機用帯ブレーキ
最高運転速度:粘着運転区間25km/h、ラック運転区間18km/h

 以上、Wikipedia kara引用、参照

 下の写真は第五隧道(トンネル)を出て第三橋梁(めがね橋)を渡るED42型機関車。アプト式のラックレールが見える貴重な一枚。


第五隧道(トンネル)から第三橋梁(めがね橋)上を走る列車
アプト式のラックレールが見える
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15



第二トンネルと第三トンネルの間を行く
上りの急行列車ED42型機関車
撮影:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15

つづく