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超高層ビルの谷間の日本の美

東京芝の増上寺

1.紅葉

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda


November 10, 12, 15 2014
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超高層ビルの谷間の日本の美 東京芝の増上寺
@紅葉   E徳川家霊廟門   J三解脱門   O芝東照宮 
A増上寺概要   F徳川家霊廟   K方丈門   P絵はがき1
B伽藍・大殿   G四大菩薩   L御成門    Q絵はがき2
C伽藍・安国殿   H鐘楼堂・水盤舎   M有章院霊廟門   R狭山不動寺
D西向観音 I惣門 N大門 補遺
歴代徳川将軍家家系 徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間

◆増上寺の紅葉(Autumn leavs in Zojoji temple) 

 昨夜(2014年11月10日)は自宅の近くにある芝の増上寺に行きました。気温は20度前後とあたたかく、都心の紅葉は今ひとつ、これからという感じでした。


芝公園にて  撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


芝公園にて  撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400

 下の写真は青山が2011年11月中旬から下旬、頸椎骨折手術で慈恵医大病院に入院していた際、病室から撮影した増上寺の紅葉です。このころに比べると温暖化の影響か、紅葉は遅れている感じでした。


慈恵医大病医院の病室から見た増上寺  2010年11月16日青山貞一撮影


写楽・中島和田衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の船宿かな川やの権(歌舞伎役者)
広重・名所江戸百景 増上寺塔赤羽


慈恵医大病医院の病室から見た増上寺  2010年11月16日青山貞一撮影


慈恵医大病医院の病室から見た増上寺上寺  2010年11月.23日青山貞一撮影



中央病棟の西側。ここにもビルの谷間に立派なお寺がありました!  
  2010年11月.24日青山貞一撮影

上の3枚の紅葉の写真は、下の写真の右側にあります慈恵医大病院
高層棟に20日間入院した際に青山が撮影したものです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-12


2014年11月12日、再度、今度は日中の増上寺に現地視察にゆきました。
あいにくの曇天ですが、それなりに紅葉は綺麗に見えました。
下は今年の増上寺の紅葉です。背後に見えるのは三解脱門です。


増上寺の紅葉
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12



増上寺大殿よりみた紅葉
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12


増上寺鐘楼堂の紅葉
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12


徳川霊廟入り口のいちょうの紅葉
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12

下の絵は、増上寺の三解脱門から東京湾を見たものです。その昔は、増上寺
当たりから東京湾がよく見えたはずです。その後、どんどん東京湾は
埋め立てられています。


江戸名所 芝増上寺 従山門上市中眺望之図   出典:東京都港区港区ゆかりの人物データベースサイト


 下の地図は、増上寺を中心とした芝公園及びその周辺を示しています。


出典:http://www.princehotels.co.jp/parktower/location/


増上寺の位置    出典:グーグルマップ

 ところで、増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園にある浄土宗の寺院で山号は三縁山と称します。空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だといわれています。

 その後、室町時代の酉誉聖聡の時、真言宗から浄土宗に改宗しており、この聖聡が、実質上の開基といえます。

 徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかではありませんが、通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったといわれています。


2011年から2012年にかけての年越しの増上寺大殿周辺の様子
出典:Wikipedia


青山の病室から見た紫色のイルミネーションに変わった東京タワー 2010年11月25日 夜
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移されています。

 この増上寺は徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となっています。

 なお、延宝8年(1680年)6月24日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしています(芝増上寺の刃傷事件)。


川広重名所江戸百景増上寺塔赤羽根


川瀬 巴水 「東京二十景」より 芝 増上寺 (大正14年)


川瀬巴水 「雪乃増上寺」

 増上寺はあの忠臣蔵でも有名です。

 元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、吉良義央が浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、3月14日の殿中刃傷の引き金になったという話が『忠臣蔵』で有名です。ただし、この畳替えの事件が史実であるかは不明です。

◆増上寺畳替え事件

 元禄14年3月11日、江戸の伝奏屋敷に到着した勅使一行は翌12日登城し将軍に天皇の返礼を伝えた後、芝増上寺で休息を取る慣例となっていた。

 その休息所の畳300畳を、それまでに全て新しく替えなければならない決まりになっていたが、吉良上野介が、浅野内匠頭に告げたのは前日の夜であった。

 浅野家の家臣は江戸中を駆け回り、畳職人を総動員して、何とかその場を凌いだが遺恨は残った。浅野内匠頭が14日の刃傷に及んだときに発した「この間の遺恨覚えたるか」の遺恨は一体幾つあったのだろうか。

出典:http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA001/S001-t14.html


「忠臣蔵十一段目夜討之図」 歌川国芳画

 徳川幕府の崩壊後、明治維新の神仏分離の影響により規模は大幅に縮小し、境内の広範囲が芝公園となりました。さらに太平洋戦争中の空襲によって徳川家霊廟、五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けています。

 すぐ隣には東京タワーがありますが、タワー建設時、増上寺は墓地の一部を土地として提供しているそうです。

 この付近の町名(芝大門)や地下鉄の駅名(大門駅)に使われている「大門」(だいもん)は、増上寺の総門のことを指しています。

つづく