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幕末の歴史を刻む上野の

13.尾形乾山墓碑・乾山深省蹟

青山貞一 Teiichi Aoyama   池田こみち Komichi Ikeda 
山形美智子 Mihicko Yamagata   鷹取 敦 Atsushi Takatori


December 19 2014
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幕末の歴史を刻む上野の森 寛永寺 
@寛永寺の誕生 D徳川家と寛永寺 H大黒天 L尾形乾山
A上野戦争 E黒門と時鐘堂 I五重塔
B上野公園と寛永寺 F開山堂、清水観音堂 J家綱霊廟勅額門
C寛永寺 根本中堂 G不忍池辯天堂 K綱吉霊廟勅額門
歴代徳川将軍家家系  徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間


寛永寺の門にある徳川家の紋章
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13




 上野寛永寺には、尾形乾山の記念碑があります。


◆尾形乾山墓碑・乾山深省蹟

 境内に尾形乾山の墓碑がありました。尾形乾山は、江戸時代の陶工、絵師です。


境内にある尾形乾山の墓碑
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13


◆尾形 乾山
( 寛文3年(1663年) - 寛保3年6月2日(1743年7月22日)

 江戸時代の陶工、絵師。名は惟充。通称は権平、新三郎。号は深省、乾山、霊海、扶陸・逃禅、紫翠、尚古斎、陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂など。一般には窯名として用いた「乾山」の名で知られています。

 京都の呉服商、雁金屋の三男として生まれ、権平と名付けられる。六歳年上の兄は尾形光琳です。

 貞享4年(1687年)父の遺言により、室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰の三つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、光琳と折半で譲り受けました。

 遊び人で派手好きで遺産を放蕩に費やした兄・光琳と対照的に、乾山は莫大な遺産が手に入っても、内省的で書物を愛し隠遁を好み、霊海・逃禅などと号して地味な生活を送りました。

 元禄2年(1689年)、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励みました。この仁和寺門前には野々村仁清が住んでおり、乾山は早くから光悦の孫の光甫や楽一入から手ほどきを受けていたこともあり、仁清から本格的に陶芸を学んだようです。

 37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えた為ここに窯を開きます。

 その場所が都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号し、出来上がった作品に記しました。

 正徳2年(1712年)50歳のとき京都市内の二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住し、多くの作品を手がけました。

 作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多いとされています。

 享保16年(1731年)69歳の時、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住んだ。元文2年(1737年)9月から初冬にかけて下野国佐野で陶芸の指導を行う。その後江戸に戻り、81歳で没した。

 乾山の名は2代、3代と受け継がれていった。ただし、それは血縁や師弟関係に基づき襲名されるのではなく、各々が自称したに過ぎません。

○代表作

陶芸
・金銀藍絵松樹文蓋物(きんぎんあいえ しょうじゅもん ふたもの)(出光美術館、重要文化財)
・銹藍金絵絵替皿(さびあいきんえ えがわりさら)5枚(根津美術館、重要文化財)
・白泥染付金彩芒文蓋物(はくでいそめつけ きんさいすすきもん ふたもの)(サントリー美術館、重要文化財)
・銹絵滝山水図茶碗(個人蔵、重要文化財)
・武蔵野隅田川図乱箱(大和文華館)寛保3年(1743年)


夕顔

○光琳との合作
・銹絵寿老人図六角皿(大倉集古館、重要文化財)
・銹絵観鴎図角皿(東京国立博物館、重要文化財)
・銹絵絵替角皿 10枚(藤田美術館、重要文化財)
・銹絵松鶴図六角皿 宝永7年(1710年)銘(個人蔵、重要文化財)

絵画
・花籠図(福岡市美術館、重要文化財)
・八橋図(文化庁保管、重要文化財)

 出典:Wikipedia