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身近な自然の中の日本の美

喜多院・仙波東照宮

2.歴史、創建と変遷


青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda


November 26 2014
Alternative Media E-wave Tokyo
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身近な自然の中の日本の美  喜多院(川越市)
@全体概要 D山門、太子堂 H大黒天
A歴史、創建と変遷 E松平大和守家廟所 I仙波東照宮1
B慈恵堂と多宝塔 F五百羅漢 J仙波東照宮2
C鐘楼門と慈眼堂 G紅葉のお庭
歴代徳川将軍家家系

歴史、創建と変遷 (History and its transition of Kitain)


出典:川越市
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24


喜多院の歴史

 平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号した。無量寿寺には北院、中院、南院があり、伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山としました。

 後伏見天皇は東国580寺の本山としての勅書を下し、後奈良天皇は星野山の勅額を下しました。永禄年間(1558年 - 1570年)頃までは3院が存在していていましたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられたため、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っています。

 慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めました。
 
 川越藩主となった老中・酒井忠利は喜多院の再興に当たりました。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜わりました。

 寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失しましたが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築しました。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれました。

 川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けました。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛しました。

以上、出典:Wikipedia

喜多院所蔵の文化財

・客  殿(国指定重要文化財)- 寛永15年(1638年)建立。「徳川家光誕生の間」がある。
・書  院(国指定重要文化財)- 寛永16年(1639年)建立。「春日局化粧の間」がある。
・庫  裡(国指定重要文化財)- 寛永15年(1638年)建立。
・慈 眼 堂(国指定重要文化財) - 正保2年(1645年)建立。慈眼大師天海を祀る。
                     厨子に入った天海僧正の木像が安置されている。
・山 門(国指定重要文化財) - 寛永9年(1632年)、天海僧正により建立。喜多院で現存
                    する最古の建物。
・鐘楼門附銅鐘(国指定重要文化財) - 元禄15年(1702年)建立。
・紙本着色職人尽絵(国指定重要文化財)
・宋版一切経絵(国指定重要文化財)
・暦応の古碑(県指定史跡)
・慈恵堂(県指定有形文化財)
・多宝塔(県指定有形文化財)
・番 所(県指定有形要文化財)
・木造天海僧正坐像(県指定有形文化財)
・延文の板碑(市指定考古資料)
・天海版一切経(市指定文化財)
・松平大和守家廟所(市指定史跡)

 以上 喜多院入場時にいただいたパンフレットより

 下は、川越仙波喜多院・日枝東照宮中院の図です。往事、喜多院は現在よりはるかに広大な土地にあったことが分かります。


川越仙波喜多院・日枝東照宮中院の図
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24


●創建と変遷

 喜多院は仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれない。伝えによると、仙波辺りの満々たる海水を仙人の法力により除き、そこに尊像を安置したというが、平安時代、淳和天皇の勅により天長七年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ、不動明王、毘沙門天等を祀り無量寿寺(むりょうじゅじ)と名付けた。

 その後、元久二年(1205)兵火で炎上の後、永仁四年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祭りし、官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。

 正安三年(1301)後伏見天皇が東国五百八十ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山(せいやさん)−現在の山号)の勅額を下した。更に、天文六年(1537)北条氏綱、上杉友定の兵火で炎上した。慶弔四年(1599)天海僧正(慈眼大師)は、第二十七世の法統をつぐが、慶長十六年(1611)11月、家康公が川越を訪れた時に親しく接見している。

 そして、天海の意見により寺領48000坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏像院北院を喜多院と改め、又、四代家綱のときに東照宮に二百石を下すなど寺勢をふるった。

 寛永十五年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永九年建立)を除き、堂宇はすべて焼失した。そこで、三代将軍家光公は、堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てた。「家光誕生の間」、「春日局の間」があるのはそのためである。

 その他、慈恵堂、多宝塔、時眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されているのである。 尚、明治維新の神仏分離令からは東照宮、日枝神社は別管理となっている。

出典:入場時にいただいたパンフレット


つづく