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増上寺石灯籠等、移築実態調査

(東京西部・埼玉西部

練馬区 正覚院

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda
山形美智子 Michiko Yamagata

January 4, 2014
Independent Media E-wave Tokyo
無断転載禁

調査の目的 D清瀬市 円福寺 2本 I上田市 信濃国分寺
@練馬区 長命寺 E清瀬市 長命寺-2 J君津市 神野寺 2本
A西東京市 東禅寺 F清瀬市 長源寺 K東京都港区 妙定院
B清瀬市 長命寺 3本 G練馬区 道場寺
C練馬区 正覚院 H練馬区 三宝寺
註)寺の名前の後ろにあります本数は論考の頁数です。つづくをクリックすることで進みます。

 2015年1月2日、池田こみちと山形美智子は、自宅近くにある練馬の正覚院を参拝するとともに、増上寺の石灯籠移築実態調査を行いました。

 正覚院の場所の航空写真は、以下の通り、氷川神社の隣にあります。


正覚寺 練馬区豊玉南2-15-7(氷川神社の隣にあります)
出典:グーグルマップ 

 練馬区にある正覚院は正式には、次の通りです。なお、隣には上の写真のように氷川神社があります。

豊島八十八箇所 第七番札所 正覚院

 住 所:練馬区豊玉南2-15-7
 最寄駅:大江戸線新江古田

 正覚院は真言宗豊山派の寺院で、山号を天満山といい豊島八十八箇所霊場第七番です。寺伝によると大田道灌が長禄年間(1457-60)に江戸城築城の際、ここ中荒井の陣屋にあった道灌崇敬の天満宮を守るため別当寺として創建したのが当寺です、市ヶ谷から立退かせた一農家を開基檀徒としたといわれます。

 隣の豊玉氷川神社は境内社の天満宮(北野神社)が最も古いという伝承もこのことをうかがわせます。

 豊島正覚寺は、明治の廃仏毀釈や火災で、寺の什宝など殆どが烏有に帰しましたが、寛永年間(1624-44)の記載がある過去帳と、それ以前と言われる涅槃像画が現存します。

 幕末から明治にかけて、ここで「筆道稽古所」という寺小屋が開かれ、地域子弟の教育に携わっていたことがあります。境内には以前、村内各所にあった庚申塔や、不動明王など石造仏が数多くあり、まt観音堂前の「八子地蔵尊」は不幸な厄に遭った八人の幼児の霊を弔ったものです。

出典:練馬区教育委員会

 以下は正覚院の山門です。


正覚院の山門 写っているのは山形美智子
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-1-2


正覚院は真言宗豊山派の寺院で、山号を天満山といい豊島八十八箇所霊場第七番の本堂
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-1-2
 

本堂のわき
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-1-2

 さらに、以下は「猫のあしあと」における「練馬の寺院」の記述です。

「練馬の寺院」による正覚院の縁起

 「新編武蔵風土記稿」に「正覚院、新義真言宗。多磨郡中野村宝仙寺末。天満山観音寺ト号ス。本尊不動。中興開山契哀。宝暦元年10月25日寂。」とある。

 口碑によると、江戸城築城に際し、外濠に住む一農家を立ち退かせるにあたり、かつて太田道灌の信仰していた天満宮の別当に、この農民をあて、当院を創建させたという。

 明治に入り廃仏毀釈や火災のため、境内は一部を失い、寺記・寺宝類は焼失した。しかし幸いにも寛永年間(1624-44)から記載のある過去帳と、三百年以上経過したと思われる制作年代不明の涅槃図(文政7年修復)は残った。

 その後10年程の無住の時期を経て明治10年代に至り、地元有力者の奔走によって本堂等が再建され、明治14年(1881)には成田講も組織されて境内に石造不動明王を祀り、近隣の信仰を集めた。

 さらに昭和13年、町内有志によって、不幸な厄にあった8人の幼児の霊を供養するための八子地蔵尊も建立された。

 本堂および観音堂(元禄10年奉祀の如意輪観世音像がある)は、昭和51年に改築され、平成3年には多宝塔も建立されて、寺観もいちだんと整った。

出典:猫のあしあと (「練馬の寺院」より)

 下は正覚院の本堂(右)と多宝塔(左)の写真です。


正覚院の本堂(右)と多宝塔(左)の写真
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-1-2

 下は正覚院の多宝塔の写真です。


正覚院の多宝塔
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-1-2


◆正覚寺にある増上寺・寛永寺からの移築された
  石灯籠についての実態調査


 池田から青山に届いたメールは以下の通りです。

 練馬の天満山正覚寺で撮影した写真を添付します。境内には二つの石灯籠がありました。

 一つは本堂の脇を墓地に向かう路地にあって、あまり良い場所とは言えません。こちらは、同部分の院号や年月日などが削られていてどなたのものか分かりません。

 もうひとつは、本堂前の庭の端っこです。これは最樹院殿と書いてあり、文政十年二月二十日とありました。調べたところ、徳川治済(とくがわ はるさだ / はるなり)が亡くなったのに際して、贈られた灯籠でした。場所的にはもうひとつのものよりよい場所です。

徳川家康  安国院(あんこくいん)
徳川秀忠  台徳院(だいとくいん)
徳川家光  大猷院(たいゆういいん)
徳川家綱  厳有院(げんゆういん)
徳川綱吉  常憲院(じょうけんいん)
徳川家宣  文昭院(ぶんしょういん)
徳川家継  有章院(ゆうしょういん)
徳川吉宗  有徳院 (ゆうとくいん)......上野寛永寺
徳川家重  惇信院 (じゅんしんいん)
徳川家治  浚明院(しゅんめいいん)
徳川家斉  文恭院(ぶんきょういん)
徳川家慶  慎徳院(しんとくいん)
徳川家定  温恭院(おんきょういん)
徳川家茂  昭徳院(しょうとくいん)

◆青山貞一・池田こみち:歴代徳川将軍家家系
◆池田こみち:徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間(和暦対応表

 Wikiによれば、徳川治斉は、江戸時代の御三卿の一つ一橋徳川家の第2代当主。8代将軍・徳川吉宗の孫で、11代将軍・徳川家斉の実父に当たります。

●徳川治斉Wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E6%B8%88

 石灯籠(本堂脇のもの)は、文政十年(1827)二月廿日に「篠山侍従青山下野子藤原忠裕」が奉納した石灯籠正面に「最樹院殿」とありました。 最樹院殿とは、徳川治済(とくがわはるさだ・1751〜1827-2-20)、八代将軍徳川吉宗の孫で、11代将軍・徳川家斉の実父に当たります。

 事前に把握している増上寺の石灯籠移築についての情報では、以下のように上野寛永寺から移築された最樹院ひとつとされていましたが、今回の現地調査により、もうひとつあることが分かりました。ただしこれが、上野寛永寺からのものか、それとも芝増上寺からのものかについては、今のところ不明です。


出典:伊藤 友己氏 増上寺の石灯籠

★確認した石灯籠(ひとつめ、上野寛永寺からのものと推定されます)


 石灯籠の胴部分に「東叡山」と記載されているので上野寛永寺からのものであることがわかりました。


本堂脇の「最樹院殿」の石灯籠 上野寛永寺から移築されたものです
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-1-2


本堂脇の「最樹院殿」の石灯籠 上野寛永寺から移築されたものです
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-1-2


本堂脇の「最樹院殿」の石灯籠 上野寛永寺から移築されたものです
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-1-2


本堂脇の「最樹院殿」の石灯籠 上野寛永寺から移築されたものです
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-1-2


本堂脇の「最樹院殿」の石灯籠 上野寛永寺から移築されたものです
撮影:山形美智子 Nikon Coolpix S6400 2015-1-2


★確認した石灯籠(ふたつめ、増上寺からのものと推定されますが不明です)


本堂の脇を墓地に向かう路地にあった石灯籠(増上寺から移築されたものと推定されます)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-1-2


本堂の脇を墓地に向かう路地にあった石灯籠(増上寺から移築されたものと推定されます)
撮影:山形美智子 Nikon Coolpix S6400 2015-1-2


本堂の脇を墓地に向かう路地にあった石灯籠(増上寺から移築されたものと推定されます)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-1-2


 以下は別のところにあった石灯籠ですが、形状から増上寺、寛永寺いずれのものでもありません。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-1-2