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東京の紅葉<芝、増上寺>

青山貞一
Teiichi Aoyama

掲載月日:2010年11月17日〜11月25日
独立系メディア「今日のコラム」
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 ひょんなことから東京都港区芝の御成門にある東京慈恵会医科大学付属病院の脳神経外科で手術を受けることになった。

 一生に一度の大不覚であるが、私を初動で診断してくれた2人のおそらく日本を代表する若手の脳神経外科の専門医師は、いずれも「九死に一生」で運が非常に良かったとのことだ。命拾いはしたが、ほっておくといつなんどき下半身不随さらに頓死するか分からないということで、急遽、手術をすることになった。これについて手術後時間を見て詳細を書きたい。

 そんなこともあり、この1週間は生きた心地がしなかった。手術はこれからだが、何としても手術を成功させ再度、社会変革の戦線に加わりたい。

 ところで私の病室は地上60m以上の高さにあり、窓からは下の写真にあるように東京タワーがすぐ近くに見える。


病室から見た風景 2010.11.16

 下は病棟の西端から見た周辺の風景である。六本木のミッドタウンも見える。


病棟の西端から見た風景 2010.11.18

 以下は私の病室の窓である。


病室から見た風景 右側に東京タワーがある
 2010.11.16

 以下は入院翌日に個室に移ったこともあり、病室の一角を書斎にした模様だ。


病室の一角につくった書斎 2010.11.14


見舞いでいただいた花です  2010.11.25

 病室から直前に見える東京タワーの隣にある超高層ビルは森ビルである。


病室から見た東京タワー  2010.11.16 朝

 押上(おしあげ)の東京スカイツリーにすっかりお株を奪われている感があるが、東京タワーの夜景は絶品だ!


病室から見た東京タワー  2010.11.16 夜


病室から見た東京タワー 2010.11.25 夜


位置関係 出典:Google Earth

 一方、窓から左側を見ると、左端に三田、田町、浜松町、方面が見え、左端にはレインボーブリッジの一部が見える(下の写真)。

 私が代表理事をしている政策学校一新塾は、下の写真にある一番大きな高層ビル(NEC本社ビル)の後、慶應義塾大学三田キャンパスの正門前にある。
 
 そのさらに後側には忠臣蔵、赤穂浪士で全国的に有名な高輪泉岳寺がある。


左端にレインボーブリッジの橋柱が見える  2010.11.16

 下は夕暮れのレインボーブリッジの浜松町側の橋脚である。


東京港レインボーブリッジの橋脚が見える  2010.11.15

 ところで港区芝といえばこの時期、忠臣蔵の一場面でも使われる有名な増上寺がある。増上寺の地番は、東京都港区芝公園四丁目、浄土宗の寺院で山号は三縁山である。

 病室からは肉眼で増上寺がよく見える。 


病室から見た増上寺  2010.11.16

 下の写真は三脚なしの望遠で撮影したため画質は悪いが、紅葉のなかの芝、増上寺がよく見える。右の白い建物は東京プリンスホテルである。

 暖冬の東京では、これからが本格的な紅葉の季節となる!
 

病室から見た増上寺  2010.11.16

病室から見た増上寺  2010.11.23


中央病棟の西側。ここにもビルの谷間に立派なお寺がありました!  2010.11.24

◆青山貞一:九十九死に一生

<増上寺>

 空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。その後、室町時代の明徳4年(1393年)、酉誉聖聡の時、真言宗から浄土宗に改宗した。この聖聡が、実質上の開基といえる。

 中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、徳川家康によって現在地の芝へ移された。

 増上寺は徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。

 元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという逸話が『忠臣蔵』で有名である。

出典:Wikipediaなど