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革命家・チェゲバラ再考
Ernesto Rafael Guevara de la Serna


青山貞一


掲載月日:2009年1月25日
独立系メディア「今日のコラム」

特集:チェ・ゲバラ&フィデル・カストロ
青山貞一:ゲバラの生涯を4時間超で映画化「チェ」鑑賞記
青山貞一:
革命家・チェゲバラ 
Che Guevara's Speech At the United Nations(English)
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青山貞一:チェ・ゲバラの世界観、国際主義と国連演説
 
革命家 チェゲバラ 新作映画2本
鷹取敦:「チェ」2部作鑑賞記


 
革命家、チェ・ゲバラ、本名、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナErnesto Rafael Guevara de la Serna)がキューバ革命成功後、世界革命を求めボリビアの山中で政府軍に射殺され42年が経過した。

 ビートルズのジョン・レノンをして「世界一かっこいい男」と言わしめ、今なお世界中で愛される革命家、チェ・ゲバラの映画が2本封切られる。


1960年3月5日(31歳)のチェ・ゲバラ
ポスターや世界中でTシャツとなった精悍なゲバラの顔写真
SOURCE: Government of Cuba

 以下はチェ・ゲバラの略歴(出典はWikipedia)

■チェ・ゲバラ略歴

生まれと育ち

 ゲバラは1928年アルゼンチンのロサリオで誕生、父はエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ、母はセリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサ。経済的には恵まれた家庭で育った。両親は保守的な慣習にとらわれないリベラルな思想の持ち主であった。

 そのゲバラは未熟児として生まれ肺炎を患う。わずか2歳にして重度の喘息と診断される。両親は息子の健康を第一とし、数度移住するも、幼少期は痙攣を伴う喘息の発作で生命の危機に陥ること度々、その度、酸素吸入器を使用していた。

 ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ。在学中に年長の友人、アルベルト・グラナードとともに原付バイクで南アメリカをまわる放浪旅行を経験、南米各地の状況を見聞するうちに社会主義に共感を示し傾倒するようになる。

 1953年、大学卒業後、友人のカルロス・ペレルとともに再び南米放浪の旅に出る。J.D.ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを離れ、ボリビア革命の進むボリビアを旅した後、ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行し、グアテマラにたどり着く。

グアテマラからメキシコへ

 グアテマラで医師を続ける最中、祖国であるペルーを追われ、グアテマラに亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会う。共鳴し社会主義に目覚め彼女と結婚する。だが、アメリカ企業による搾取からの経済的独立など、グアテマラ革命と呼ばれるほどの急進的な改革を進めていたアルベンス政権が、CIAに後押しされた反抗勢力に倒されグアテマラの革命政権は崩壊した。この出来事をきっかけにゲバラは革命を志すようになる。

 その後、ゲバラは妻のガデアとともに失意と怒りを抱いながらメキシコに移る。1955年7月、亡命中の反体制派キューバ人のリーダーである、フィデル・カストロと出会う。キューバのフルヘンシオ・バティスタ独裁政権打倒を目指すカストロに共感し一夜にして反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意したとされている。こうしてキューバ上陸への準備が進んでいった。

カストロとキューバ革命に参加

 妻と娘をメキシコに残し、単身キューバへ向かう。1956年11月25日フィデル・カストロをリーダーとした反乱軍総勢82名は8人乗りのグランマ号に乗り込みキューバに向かう。しかし嵐の中での出航でもあり、キューバ上陸時には体力を消耗し、士気も低下していた。


チェ・ゲバラとフィデル・カストロ
SOURCE: Government of Cuba

 さらに反乱軍の上陸をカストロが事前に発表し、計画の内容もキューバ政府に漏洩していたため反乱軍は上陸直後に政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となった。生きて上陸できたのはゲバラ、フィデル・カストロ、ラウル・カストロ、カミーロ・シエンフエゴスなど12人のみ。

 上陸後、彼ら反乱軍はシエラ・マエストラ山脈に潜伏し、山中の村などを転々としながら軍の立て直しを図る。その後キューバ国内の反政府勢力との合流、反乱軍は増強されていった。


シエラ・マエストラ山脈
SOURCE: Wikipedia

 当初、ゲバラの部隊での役割は軍医であったが、革命軍の政治放送をするラジオ局を設立するなど、政府軍との戦闘の中でその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断力、人の気持ちをつかむ才を遺憾なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。


キューバ全図 Map of Cuba   Source:Google Map

 ※ 地図上、北西部に首都のハバナ(スペイン語ではラァバーナと発音)
    があり、中央に主戦場となったサンタ・クララがある。さらに東端に
    アフガン人、イラク人兵などを人権無視で国際的に非難されている
    米国が強制収容している「米軍のガンタナモ基地」がある。


キューバの東端にある米国の軍事基地、ガンタナモ基地

 1958年12月29日、ゲバラは軍を率いてキューバ第2の都市サンタ・クララに突入。多数の市民の加勢もあり、これを制圧、首都ハバナへの勝利の道筋を開いた。そして1959年1月1日午前2時10分、将軍フルヘンシオ・バティスタがドミニカ共和国へ亡命、1月8日カストロがハバナに入城、「キューバ革命」が達成された。

 ゲバラは闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権を与えられ、キューバ新政府の閣僚となるに至った。


毛沢東と会談するチェ・ゲバラ
SOURCE: Wikipedia

永久革命を求めボリビアへ

 ゲバラはカストロとの会談の末、新たな革命の場として、かつてボリビア革命が起きたものの、その後はレネ・バリエントスが軍事独裁政権を敷いており、南米大陸の中心部にあって大陸革命の拠点になるとみなしたボリビアを選び、1966年11月、ウルグアイ人ビジネスマンに変装して現地に渡る。

 ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたものだった。少人数のゲリラで山岳に潜伏し、つねに前衛、本隊、後衛とわけて組織的に警戒し、必要があれば少人数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。

 しかし、独自の革命理論に固執したため、親ソ的なマリオ・モンヘ率いるボリビア共産党からの協力が得られず、カストロからの援助も滞り、ボリビア革命によって土地を手に入れた農民は新たな革命には興味を持たず、さらに元ナチスドイツ親衛隊のクラウス・バルビーを顧問としたボリビア政府軍が、冷戦下において反共軍事政権を支持していたアメリカのCIAから武器の供与と兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、ここでも苦戦を強いられる事となる。

志半ば、ボリビアの山中で死す

 1967年10月8日、20名前後のゲリラ部隊とともに行動、ボリビア・アンデスのチューロ渓谷の戦闘で、政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる。部隊の指揮を務めていたボリビア人とともに、渓谷から7キロほど南にあるイゲラ村に連行され小学校に収容された。


ボリビア政府軍に捉えられたときにゲバラ。この後、数時間後に殺害された
SOURCE: Government of Cuba

 翌朝、午後0時45分、政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹に右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。


ボリビアでゲバラが政府軍に捉えられ一旦収容された小学校
SOURCE: Wikipedia


政府軍に殺害された後のゲバラの死体写真
SOURCE: Government of Cuba

 1997年、死後30年にして遺骨がボリビアで発見された。遺骨は遺族らが居るキューバへ送られ「帰国」を迎える週間が設けられ、遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が集まった。

 フィデル=カストロは長時間のスピーチで有名であるが、この時のスピーチは珍しく簡潔であった。遺体は霊廟に葬られた。

 今日でもチェ・ゲバラは、中南米を始めとした第三世界で絶大な人気を誇るカリスマ、なかんづくボリビアではイゲラの聖エルネストと呼ばれる事もある。いわばボリビア民衆の守護神であったのだろう。


キューバ第2の都市でキューバ革命の主戦場となった
サンタ・クララにあるゲバラの霊廟
キューバから約300km東

SOURCE: Government of Cuba


■チェ・ゲバラの人物像

道徳の巨人

 ゲバラはカストロに「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評さた。実際、ゲバラは誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだという。

 だが、自己に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、閣僚だった当時の部下からは「冷徹、尊大で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」と囁かれ、必ずしも好意は持たれていなかったとされる。

世界で一番格好良い男

 一方民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていた。フランスの作家レジス・ドブレは、革命軍に帯同した際のゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と評した。他にもジャン=ポール・サルトルから「20世紀で最も完璧な人間」と称され、「世界で一番格好良い男」とジョン・レノンに言われている。

SOURCE: Government of Cuba

多くのベトナム(反帝国主義人民戦争)を作れ

 「2つ、3つ、もっと多くのベトナム(反帝国主義人民戦争)を作れ」という彼の言葉に象徴されるように、武力闘争を圧政から逃れる唯一の道と断じ、アウグスト・サンディーノらの過去のゲリラ戦争をよく研究しゲリラ戦の手引き書である『ゲリラ戦争 La Guerra de Guerrillas』(1960年)を著した。

 ただ、その『ゲリラ戦争』においてすら「平和革命と選挙による変革の道は可能性があるのなら望ましいし追求するべきだ。

趣味は写真撮影、ニコンをS2を愛用

 チェ・ゲバラの趣味は写真撮影で「司令官になる前、僕は写真家だった」と彼自身が語っている。カメラは1954年に発売されたニコン S2を愛用していたが、革命戦争中に同じ部隊にいた軍医オスカル・フェルナンデス・メルに譲った。代わりに旧ソ連製のキエフを貰った。

 ゲバラが愛用したニコンのS2は現在もハバナのカバーニャ要塞に保管されている。