エントランスへはここをクリック   
群馬・長野県境
限界集落・馬坂

青山貞一・池田こみち
掲載日: 2012年12月26日
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁

 今回の秩父事件の現地調査では、群馬県から長野県に入る道がいずれも冬期凍結で不通となっていた。その結果、群馬県南牧村の林道(県道93号線)を経由して長野県佐久市に入らざるを得なくなった。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 私達は群馬県上野町の西端から県道45号線に入り、途中から南牧川沿いを走る長野県道93号線で佐久方面に向かった。この道路は県道となっているが、傾斜、線形、幅員など、いずれから見ても厳しいものであった。

 長野県にも同じ南牧村があるが、群馬県の南牧村ルートの沿道は、気候から見て冬場の気温はおそらく常時マイナス5度からマイナス10度となるなど厳しいものであることが想像に難くない。


◆限界集落とは

 限界集落は、過疎化などで人口の半分以上が65歳超の高齢者になっており、冠婚葬祭など社会的共同生活の維持も困難になっている集落を指すもので、日本に固有の社会組織の概念である。共同体として生きてゆくための「限界」として限界集落は表現されている。

 その限界集落は中山間地域や離島を中心に、過疎化、高齢化の進行で急速にその数が増えてきているという。

 限界集落では集落の自治、生活道路の管理、冠婚葬祭など共同体としての機能が急速に衰えてしまい、やがて消滅に向かうとされている。したがって、「限界集落」にはもはや就学児童など未成年者や若年世代がまったく存在せず、独居老人やその予備軍のみが残っている場合が多く病身者も少なくない。

 下のグラフは群馬県南牧村の人口構成を示している。南牧村では人口が急激に減少しているだけでなく、村の人口のうち65歳以上が突出して多いことが分かる。

群馬県南牧村(に該当する地域)の人口の推移
1970年 7,671人
1975年 6,856人
1980年 5,893人
1985年 5,089人
1990年 4,387人
1995年 3,829人
2000年 3,340人
2005年 2,929人
2010年 2,425人
 出典:総務省統計局 / 国勢調査

 群馬県南牧村の人口構成

 出典:総務省統計局 / 国勢調査


◆限界集落・馬坂(まさか、群馬県側では間坂ともいう)

 私達が車で群馬県南牧村から長野県佐久市(旧臼田町)に入る境界の沿道周辺に、まさに世に言う限界集落の連続があった。

 下の写真は群馬県南牧村と長野県佐久郡旧臼田町の境界線上の長野よりにある馬坂地区である。


群馬県南牧村の位置 出典:南牧村公式Web


馬坂(間坂)の位置 出典:マピオン


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8



限界集落 馬坂。ちょうど群馬と長野の県境近くにある。
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


限界集落 馬坂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 馬坂の集落には、下の写真にあるように、すばらしい段々畑があった。現地調査で訪問したのが12月下旬ということもあり、作物の栽培はなかったが、急傾斜地の畑は非常に良く整備されていて、限界集落における自給自足的な生活の助けになっているであろう。


限界集落 馬坂。ちょうど群馬と長野の県境近くにある。
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


限界集落 馬坂。ちょうど群馬と長野の県境近くにある。
手前左の赤い車が私達が使ったトヨタのアクア(ハイブリッド)車
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 以下の2枚は、グーグルアースで3次元地形展開した馬坂集落である。険しい谷沿いに集落が存在していることがよく分かる。


グーグルアースで3次元展開した馬坂集落


グーグルアースで3次元展開した馬坂集落


 馬坂地区を調べると、馬坂を群馬県側では<間坂>、長野県側は<馬坂>と表記も異なるそうだ。行政区的には、近くを流れる馬坂川の北側が長野、そして南側が群馬である。

 地形的には長野側が陽当たりが良く家屋が並んでいるが、長野県側の広河原より群馬県側の生活圏は群馬に依存しているらしい。

 馬坂地区では、現在、長野側から週に1回程度、食品や生活用品を販売しに来るという。馬坂川沿いの家は “渓谷の宿”のごとくである。


◆馬坂行政区の沿革

 群馬側の間坂集落は羽沢に属する。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 馬坂の沿革は、1893年(明治26年)に南佐久郡臼田村が町制を施行し臼田町となり、その後、1956年(昭和31年)に臼田町と田口青沼村の合併で臼田町の一部となった。

 さらに2005年(平成17)4月の平成の大合併で佐久市、北佐久郡浅科村(五郎兵衛新田所在地)、望月町、南佐久郡臼田町の大合併により、佐久市の一部となっている。


日本の民話に出てくる馬坂の名の由来

 馬坂の地名の由来をさがしていたら、興味深い日本民話に出会った。以下がその民話である。
  
 むかしむかし、上州(じょうしゅう→群馬県)と田口(たぐち→長野県佐久市の東)との境(さかい)がはっきりしていなかったころ、田口峠のあたりでは、境をめぐる村人の争いがたえませんでした。

 ある日のこと、田口の若者が山へたきぎを取りに出かけました。

 ところが気がつくと上州との境を越えてしまい、高崎側の農民に取り囲まれてしまいました。

 「盗人だ。ひっとらえろ!」

 高崎の農民たちは若者を捕まえると、高崎の殿さまの前に突き出しました。

 若者は、まっ青になって、「許してくれ。決して盗人でねえ。知らないうちに、入ってしまったんだ」と、説明したのですが、だれも信じてくれません。

 ところが、この高崎の殿さまは心の広い人で、農民たちと若者の話をじっくり聞いた上で、こう言いました。

 「若者よ、お前もうかつだったが、こちらも早合点したようだ。これは田口との境がはっきりしないためだ。これを機に境を決めよう」 それから三日後、田口の殿さまと高崎の殿さまが、同じ時間に城を出て峠に向かい、出会ったところを境にしようと決めたのです。

 これには、田口の殿さまも賛成です。

 気の早い田口の殿さまは、さっそく準備を始めました。

 そしていよいよ、当日の朝。

 早くに目覚めた田口の殿さまは、時間が来ると家来を従えて馬に乗って峠へと急ぎました。

 一方、高崎の殿さまは、家来の者が急がすのもかまわず、まるで散歩のような気分で牛の背に乗って出かけたのです。

 馬と牛とでは、速さが違います。

 高崎の殿さまがやっと峠の坂道に差しかかったときには、すでに田口の殿さまの行列がやってきていました。

 「ぬかった! まさか馬で来て、こんなとこで行き逢うとは」

 高崎の殿さまは、自分ののんきさを悔やみましたが、いまさら仕方ありません。

 こうして二人の殿さまが出会った場所は、高崎の殿さまの驚きの言葉からとって、『馬坂(まさか)の行逢坂(ゆきあいざか)』と名づけられたそうです。

 そしてそれ以来、境界争いはなくなったそうです。

出典:日本民話 http://hukumusume.com/douwa/pc/minwa/05/15b.htm