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初秋の上州を行く

A妙義に咲く華麗な神社
青山貞一
掲載月日:2012年10月7日
 独立系メディア E−wave Tokyo

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◆妙義神社の概要

 妙義神社の創建は、宣化天皇2年(西暦537)に開かれたのが始まりと伝えられており、非常に歴史がある。

 古社で、当初は波己曽大神として平安時代に編纂された歴史書"日本三代実録"にもその名が記されているという。

 鎮座する妙義山は上毛三山の1つ。

 後に日本三大奇勝、日本百景に数えられる程、特異な景観で古くから山岳信仰や自然崇拝的な信仰の対象として広く知られる存在であった。ちなみに、上毛三山とは、赤城山(赤城神社)、榛名山(榛名神社)、妙義山(妙義神社)の3つの山である。

 特に江戸時代に入り妙義神社が上野東叡山宮御兼帯の格式を得ると、歴代将軍や皇室などから崇敬、庇護され社運が隆盛し妙義千軒と称されるほど繁栄したと言われている。実際、よく見ると妙義神社の社殿のいくつかには、三ツ葉葵や菊の御紋が付いている。

 妙義神社の社殿は宝歴2年(西暦1752)に大改修されているが、権現造り、黒漆喰に金箔や極彩色で彩られ、多彩で精巧な彫刻は上毛の日光と称されるほどである。

 前回書いたブログでも述べたが、妙義神社は一大改修中であるが、日光の東照宮に負けず劣らぬ大社殿(本殿・幣殿・拝殿)や唐門は、現在まったく見ることが出来ず残念無念であった。

 見れたのは総門、波己曽社、石垣などだったが、噂に違わず妙義神社は、さまざまな意味で日光東照宮を凌ぐ秀逸な社殿、建築物があり、長い歴史をもつ希有な寺社であることが分かった。

 なお、戦前、各神社は国の保有物として扱われていたが、敗戦後GHQにより「政教分離」により神社仏閣は宗教法人のもとで保護されることになった。その関係で、妙義神社には、神社だけでなく境内には由緒ある寺もあった。


◆秀逸な総門

 参道を上がると総門がある。

 総門 は3間1戸の八脚門、切妻造で、平面積62,358 平方b、棟の高さ11.659bの大きな門である。

 この門は江戸時代、妙義神社の別当寺の仁王門で あったが、神仏分離により総門に改められた。 屋根は最近まで檜皮葺であったが、修理によって創建時の銅板葺に改められた。


妙義神社の総門 撮影:青山貞一


妙義神社の総門
撮影:青山貞一


妙義神社の総門 
撮影:池田こみち

妙義神社の大杉の子孫

 総門のすぐ近くに大杉の子孫がある。

 妙義神社の境内には、樹齢千年以上の天然記念物の大杉があったが、老衰腐朽のため昭和46年で倒壊してしまった。

 その大杉の穂を保存、接ぎ木し、大杉の子孫として復活させた話しを前回来たときボランティアの学原因の方から伺った。

 正確には国の天然記念物に指定されている妙義神社の大杉の子孫である。昭和8年に天然記念物に指定された大杉は老木のため衰弱し、昭和46年1月の台風により倒壊、その後、関東林木育種場にこの杉の健全な穂がつぎ木で保存され、群馬県林業試験場がつぎ穂としてもらい受け、昭和48年つぎ木し49年にとり木をし、大杉の子孫を作り植栽したとのことである。


撮影:青山貞一


撮影:青山貞一


◆波己曽社(はこそ)

 総門をくぐってすぐ右にあるのが妙義神社波己曽社殿だ。

 波己曽社は 妙義神社の元社である。


重要文化財、旧本殿で今は祈祷殿となっている波己曽社。
撮影:青山貞一


波己曽社前の青銅製の灯籠
撮影:青山貞一

 永年腐朽にまかせ、拝殿は分離され妙義神社の神楽殿として利用されてきたが、1969年、昭和44)年、銅鳥居脇の養蚕社の位置に復原された。

 この社殿は1968(昭和43)年5月4日、群馬県重要文化財に指定されている。

 本社殿は妙義神社社殿より一時代前の様式をもった建造物で、入母屋造で正面屋根に千鳥破風をもった拝殿、それに幣殿・本殿が接続し、完全に原型に復した。


重要文化財、旧本殿で今は祈祷殿となっている波己曽社。
撮影:青山貞一


波己曽社
撮影:青山貞一

 今回、この波己曽社は、修復中だった。以下は前回撮影した写真である。


波己曽社・御本殿
撮影:青山貞一


波己曽社・御本殿
撮影:青山貞一

つづく