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山形県上山市と
イザベラ・バード
青山貞一
環境総合研究所顧問、東京都市大学名誉教授
掲載月日:2013年4月20日
独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁


 私が4月13日、14日にでかけた山形県の上山市は、山形新幹線の「かみのやま温泉駅」かわ分かるように、温泉町でもある。

 上山温泉は、山形県上山市(旧国出羽国、明治以降は羽前国)にある温泉で古くは同じ山形県の湯野浜温泉、福島県の東山温泉と共に「奥羽三楽郷」に数えられていた。

 福島県の東山温泉には、放射線測定で2回、会津若松市、西会津町、南会津町、喜多方市などに現地調査した際に宿泊しているが、上山温泉が「奥羽三楽郷」のひとつであるとは知らなかった。

 私をガス化溶融炉問題で呼んでくれた結城玲子さん(株式会社クラフト役員)は、武蔵野美術大学を卒業後、郷里で仕事をする傍ら、「山形歴史たてもの研究会」の会長をするほど歴史文化や景観、とりわけ里山文化、里山景観に造詣が深いかただ。
 
 
山形市、上山市など2市2町が上山市川口地区で計画しているガス化溶融炉のすごぐとなりに、明治11年に竣工した「めがね橋」があると述べたが、当時、このめがね橋をイギリスの女性旅行家で紀行作家のイザベラ・バードが歩いて渡ったらしい。


明治11年につくられためがね橋
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下は、Wikipedia からのイザベラ・バードについての略歴の転載である。

◆イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird,, 1831年 - 1904年)

 イギリスの女性旅行家、紀行作家。明治時代の東北地方や北海道、関西などを旅行し、その旅行記"Unbeaten Tracks in Japan"(邦題『日本奥地紀行』『バード 日本紀行』)を書いた。


Isabella Lucy Bird

 イギリス・ヨークシャーで牧師の長女として生まれる。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。アメリカやカナダを旅し、1856年"The Englishwoman in America"を書いた。

その後、ヴィクトリアン・レディ・トラヴェラー(当時としては珍しい女性旅行家)として、世界中を旅した。1893年英国地理学会特別会員となる。

1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。これらの体験を1880年 "Unbeaten Tracks in Japan" 2巻にまとめた。

 第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。この中で、英国公使ハリー・パークス、後に明治学院を設立するヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘボン)、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻(新島襄・新島八重)らを訪問、面会した記述も含まれている。

 その後、1885年に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される。本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文献である。

 また、清国、クルディスタン、ペルシャ、チベットを旅し、さらに1894年から1897年にかけ、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、旅行記"Korea and Her Neighbours"(『朝鮮紀行』)を書いている。中国への再度の旅行を計画していたが、1904年に73歳の誕生日を前にして死去した。

出典:Wikipedia

 このめがね橋は、山形県内で明治初期に建造された多くのアーチ型の石橋のひとつだが、上山市川口地区のめがね橋は、現存していることに加え、二重連のアーチ橋である点で山形県内では希有である。

◆山形県内に現存する明治時代の石橋群

 薩摩藩出身で、初代山形県令「三島通庸(みちつね)」の政策により山形の石橋は建設されはじめました。九州地方は肥後の石工をはじめとする架橋技術によって、多数の石橋が建設されています。

 このことが、山形での石橋の建設に影響を与えています。また、薩摩出身の山形県土木技官である奥野忠蔵も石橋を設計しています。(瀧ノ岩橋、瀧ノ小橋、吉田橋、綱取橋、常磐橋など)

 初代県令の三島通庸は、県内の幹線道路や隣接する各県へつながる道路網を整備するために石橋(アーチ橋)や隧道(トンネル)、洞門などの建設を推進したため、現在でも数多くの建造物が現存しており、貴重な土木遺産となっています。(栗子隧道(米沢市)、関山隧道(東根市)、片洞門(小国町)、石橋群など)

出典:山形県内に現存する明治時代の石橋群
 
 以下は、おそらく私のガス化溶融炉問題の講演に参加された小林さんが書かれたブログである。そのまま転載させていただいた。

◆めがねばしとイザベラバード

 清掃工場の建設候補地となっている農地のすぐそばに日本の近代史を象徴する構築物がある。 それが上山市川口地区を流れる前川にかかる明治11年3月に竣工した堅磐橋(かきわばし)である。

 むろん、明治以前の日本には石造りの橋はほとんど見られなかった。まさしく石造りのアーチ型の橋の建造は日本の近代化・欧風化を象徴する事象であり、堅固な石橋は重い馬車や重い建材や穀物を輸送するのに不可欠な交通インフラである。 山形県内、特に上山市界隈にはこの種の石造りのアーチ橋(めがね橋)は数基現存する。

 しかし大半が1連だけで、2連はこの堅磐橋だけである。
 その意味だけでも堅磐橋は貴重であると言わなければならない。
 それに加えてこの橋が完成して間もなくの同年にかの有名なイザベラ・バードが通り、上山の温泉街に向かっている。

 むろん、この橋はかつての羽州街道に架けられてているから、まさしく「歴史の道」の上に架けられた「歴史の橋」である。

 しかし、・・・・(↓ 写真の下に続く)

 この堅磐橋のすぐ向こう側に武骨な外観の清掃工場が建てられたら、上の写真のような武骨でしかない景観に変貌するだろう。

 たぶん、清掃工場の建設によりこの橋までが壊されることはないであろうが、ともかく歴史的景観が壊され、ますます忘れ去られてしまうことだけは確かであろう。
 えっ、そんな歴史的景観が破壊されたって「痛くも痒くもない」って?
 それに、大気汚染の心配もないとお役所のお墨付きだから、いいではないか、という声も聞こえてきそうだ。

 だが、自然景観と歴史的景観の破壊は「日本全体をゴミのような景観」にしてしまいかねないのだ。 現代人が量産した「ゴミ」の蔓延は同時に日本の国土全体を「ゴミ的景観」にしてしまうようだ。

 まさしく、たかがゴミ、されどゴミである。
※ 写真の清掃工場は某都道府県の某市の清掃工場

 小林さんとは、講演が始まる前、少しだけ議論した。それは同じ英国でも北部のスコットランドと南部のイングランドでは、民族性、個性、独創性がまったく違うという話である。
 
 小林さんも私のいわゆる<鵜呑度論>に共感されたが、イザベラ・バードは、イギリス・ヨークシャーで牧師の長女として生まれており、イングランドの出身である。

 多くの山形の方々にとっては、スコットランドであれ、イングランドであるかはどうでもよいことだろうが、明治には、英国人ジョサイア・コンドルが日本に来て、工部大学校で建築を教えた。その一人に、後に東京駅を設計した辰野 金吾もいた。これについては、以下を参照して欲しい。

青山貞一:東京駅の設計者、辰野金吾と故郷、唐津
 http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col31010..html

 一方、イザベラ・バード女史が1878年(明治11年)6月から9月にかけ東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した際、山形を訪問したことは、どうでもよいことではない。それがこの地の里山と歴史的建造物を守る大きな心のよりどころとなっているのである。

 おそらく上山町川口のめがね橋を歩きながら、この地の里山や自然の景観が大いに気に入ったに違いない。


山形県上山町川口地区に残る明治11年建造のめがね橋
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2013.4.14


近くにはこんな立派なカルバート?もあった
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2013.4.14


里山の背後にある水辺空間
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2013.4.14

 以下は、イザベラ・バードに対する碑文。「上山の町は、楽しげな家々に庭園があり、 美しい風景のある温泉場で、旅館のもてなしに感動し、清潔で日本で最も空気がからりとしており、町が心地よく横たわっているところである」とある。



つづく