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いわれなき迫害はねのけた

近代日本絵画の祖

岡倉天心、横山大観、菱田春草

青山貞一 Teiichi Aoyama

October 27 ,2014
Alternative Media E-wave Tokyo


 美術の話しです。

 現在、東京の東京国立近代美術館で菱田春草の個展が11月3日まで開かれています。青山は最終日の11月3日に東京国立近代美術館の菱田春草展に行きました!

 菱田春草は、明治時代中頃、岡倉天心、横山大観らとともに、新たな日本画に挑戦し、保守的な日本画家やマスコミから迫害に近い仕打ちを受けた画家です。


菱田春草


菱田春草作  王昭君図  善寶寺蔵


菱田春草作  王昭君図(一部)  善寶寺蔵


菱田春草展 入場券

◆菱田春作 王昭君図の由来

 1982(昭和57)年6月5日指定 国指定重要文化財

 菱田春草は、長野の飯田町に生まれました。16歳の時東京に出て結城正明に画を学び、更に東京美術学校を卒業、1902(明治35)年3月に開かれた第十二回絵画共進会に「王昭君」を出品して、銀碑第一席をうけました。

 本図は、中国漢の元帝が、後宮の美女王昭君を匈奴の王に贈る哀愁惜別の情景を描いたもので、朦朧体といわれる没線法に精進していた頃の代表作です。

 中国前漢元帝 (在位前 49年~ 前 33 年) の頃-、北方匐奴の単干は漢への忠誠を誓い公主を給わって漢の姻戚になりたいと申し入れた。 帝は後宮の宮女の先に画かせていた肖像画の中から一番醜い王昭君を選んだ。 別れにあたって接見してみると誰よりも美しく典雅であった。

 それは王昭君が面工に賄賂を贈ることを潔しとしなかったからだという。

 怒った帝は画工を斬るが約束を守るため彼女を単干のもとに贈った。 王昭君は遠く蛮地の匂奴の風習の中で不遇な一生を終わる。

 実は王昭君は名家の出で 17歳で選ばれ宮中に入ったが、数年経っても帝からのお召 しがなく、それを悲しみ恨んでいる所に単子に美女を贈るということを聞き自ら進んで行ったともいわれている。

 二宮冬鳥は 『黄眠集』 の中で 「正しきがゆゑにその身をほるぼしし例は 王昭君のみならず」 と詠んでいる。

出典:http://www.nagasaki.med.or.jp/kaiho/kaiho-No.773/kaiho773-34-35.pdf


菱田春草の「黒き猫」 重要文化財


菱田春草の「黒き猫」(一部) 重要文化財


東京国立近代美術館で菱田春草の個展で購入した絵葉書
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 池田こみちさんがおばさんの山形美智子さんと土曜日に菱田春草展を見に行って大変良かったというメールが来ていますが、丁度そのとき妻がNHKで放映した「横山大観」の2時間弱の番組のビデオを見ていたので、一緒に見ました。

つづく