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文化財の宝庫・中国山西省

太原市 <双塔寺>

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
December 25, 2016
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文化財の宝庫、中国山西省
総論 神怡舘再訪  山西省概要1  山西省概要2  万里の長城1  万里の長城2
大同市 五台山 雲崗石窟  懸空寺  応県木塔 南禅寺 佛光寺  九龍壁
太原市 双塔寺 晋祠 玄中寺 天龍山石窟
晋中市 平遥古城 平遥古城壁 双林寺 綿山
臨汾市 小西天 東岳廟 運城市 関帝廟 永楽宮
その他 仏像 工芸品 民族楽器 書・絵画 まとめ 補:他寺院



◆太原市(たいげんし)



 太原市は中華人民共和国山西省の省都。この市域は中国の古都の一つで、2500年の歴史があります。


出典:山西省人民政府弁公室

 太原市は黄土高原の東部、太原盆地の北端に位置し、北・西・東の三方を山に囲まれています。山西最大の河川である汾河が北から南へ約100kmにわたり市域を貫きます。汾河は静楽地区で市域に入り西から東へ流れ、上蘭村で南へ折れ、太原市街地を南北に流れています。

 市域の中部と南部は汾河が形成した北高南低で簸箕の形をした河谷平原が広がっています。汾河の支流には瀟河、屯蘭河、大川河、柳林河、凌井河、楊興河などがあります。
 
 海抜は最高で2,670m、最低点は760m、平均海抜は800mほどです。市域は山と丘陵地が中心で、平地と川は面積のうち5分の1を占めています。盆地内の地形は平坦で土壌も肥沃であり、古くから農業が発達してきました。

 現在の耕地面積は210万畝で、山林面積は83万畝、草地面積は187万畝。主な農作物はコムギ、イネ、トウモロコシ、コーリャン、豆、イモなど。また野菜、綿花、甜菜、薬草、アブラナなどの商品作物も産します。

 山麓では泉が湧き水は比較的豊富です。市域内には大きな池沼が六つあり、晋陽湖が最大の湖になっています。汾河の両岸には工業用水や農業用水を運ぶ用水路が広がっています。

 太原は山西高原を南北に貫き黄河に流れる汾河の中流にあります。汾河流域にも黄河文明の遺跡が多く古くから文明が栄えました。また洛陽周辺と北京周辺を結ぶ重要な街道が汾河沿いの盆地を通るため、太原は交通の要衝でもありました。北方の遊牧民族にとって太原は中原を攻めるための拠点で、漢民族にとって太原は北方の守りの要衝でありました。

 太原は古くは晋陽と呼ばれ、春秋時代の大国晋の都邑(主要都市)の一つでした。晋の有力家系・趙氏の当主趙鞅(趙簡子)が紀元前497年に晋陽の町を築いたことが太原の歴史の始まりとされています。

 紀元前455年(周貞定王14年)、有力家系のひとつ智伯の瑤(智襄子)は趙氏を攻め、汾河の水で趙無恤(趙襄子)のいる晋陽城に水攻めを行いましたが(晋陽の戦い)、趙襄子は智氏の軍に従って来た魏氏の当主・魏駒(魏桓子)と韓氏の当主・韓虎(韓康子)に寝返り工作を行いました。韓魏両氏の軍は堰き止めていた水を智氏の軍営に向けて流し智伯軍を破り、智瑤を殺しました。これにより晋は事実上、趙・韓・魏の三氏によって分割統治されるようになり、戦国時代が始まります。晋の滅亡後、趙はしばらくの間引き続き晋陽に国都を置いています。

 中略

 清末期には太原にはキリスト教宣教師や多くのキリスト教徒が住んでいましたが、1900年の義和団の乱の際には義和団による虐殺が起こりました(太原教案)。特に当時山西巡撫だった毓賢は苛烈な排外主義者でもあり義和団を用いて教会や病院を焼き払うなどしました。

 1907年に北京と武漢を結ぶ幹線鉄道(現在の京広線)上の石家荘からの支線が太原府に到達しましたが、一方で中国に近代的な銀行システムが導入されたことにより山西商人は大打撃を受け、従来の金融の中心地だった太原の経済は落ち込みました。

 中華民国時代には山西軍閥の閻錫山が太原を根拠地とし、豊富な資源を生かした工業化と教育などのシステム整備を進め経済を回復させました。

 日中戦争では日本軍に占領され、支配地のほとんどを失った山西軍閥は弱体化し、その後の国共内戦における太原戦役では、人民解放軍が閻錫山の軍を破り太原を占領しました(中国山西省日本軍残留問題はこの時期に発生しました)。

 新中国建国後、太原は豊富な地下資源があることから重工業および石炭業で国家を支えました。経済開放後、老朽化した国営工場が多く海外への物流も不便だった太原は、臨海部に対して相対的に地位が低下しました。さらに地域で産出される石炭を燃料にした産業構造により、深刻な大気汚染などの公害にも悩みましたが、環境の改善と産業の高度化、交通基盤の整備に力を入れています。

出典:Wikipedia

◆双塔寺

 以下は双塔寺の位置です。


出典:グーグルマップ

概要

 太原市東部にある寺院で、明代の1608年の創建です。太原市のシンボルとなっている2基の8角13層、高さ50余mの塔があります。蘇東波、王義之などの署名な書家の碑を集めた碑廊があります。


詳細
(出典:山西省)

 太原市東南の「庄村」南にある「双塔寺」は、明万暦36年(1608年)に建造されました。別名「永祚寺」とも言い「祚」とは神に助けを求めるという意味です。

 「前院」「後院」「塔院」の3つに分かれた寺内には、有名な「双塔」があります。明時代の高僧「「仏灯」によって造られました。

 高さ約50m、レンガ式、13階建てのこの両塔は、60m間隔で並んでいます。

 螺旋状の階段で11階まで登ることができ、長城からは太原市全体を見渡すことができます。

 主殿「大雄宝殿」中央には、高さ4mの銅製「阿弥陀仏立像」、その両側には「迎仏」「薬王坐像」が並んでいます。

 開花の時期になると、小院内には牡丹やライラック等が満開に咲き、中には明時代の「紫霞仙」と呼ばれる大変美しい牡丹もあります。

 碑廊には、有名な書道家「王羲之」「張旭」「顔真卿」「祁崔藻」等の書道が刻まれた石碑が 260 余残されており、字体も真、草、隶、篆等様々で、中国の書道芸術名所となっています。


・双塔(そうとう)について 
  出典:双塔 / ShuangTa / シュワンター

 太原の象徴である「双塔」は、太原東南「庄村」南に位置します。

 原名は「文宣塔」、また聳え立つ様子は筆のようであるため、「文筆双塔」ともいわれています。

 「双塔」は、明代万暦三十六年(1608 年)、高僧「仏登」(妙峰祖師)によって、5年の歳月をかけて完成しました。真言密教の、円満が尽きないという意味を持つ「16」の数字をとって、2つの塔の距離は16 丈(50m)となっています。

 この「文峰塔」と「舎利塔」の 2 つの塔は、それぞれ特徴が異なっています。直立形の「文峰塔」は、風水に利用されているのに対して、弧を描いた流線型の「舎利塔」は、礼拝の場所として「仏舍利子」「藏仏軽」が祀られており、宗教色の強いのが特徴です。


出典:壮大な歴史との出会い 山西省 埼玉県山西省友好記念館


双塔寺   出典:旅情中国


つづく