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短訪 平林寺伽藍2

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
May 15 & December 29, 2015
Independent Media E-wave Tokyo

◆中門・本堂

◆中門

 本堂の入口にある中門は、茅葺きの切妻造りの四脚門です。

 中門や総門など、平林寺の茅葺きの建物は県指定文化財となっています。


仏殿と本堂の間の中門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1


仏殿と本堂の間の門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1

 中門の奥が本堂です。

本堂

 本堂は庫裡とともに慶応3年(1867)12月の火災で焼失しましたが、明治13年(1880)10月に旧堂に近い形で再建されました。

 堂内の正面手前には、「金鳳山」「凌霄閣」の扁額と同じく丈山筆による「平林禅寺」の寺号額が掲げられています。正保3年(1646)に松平信綱の実父久綱が死去した際に、追善供養として信綱の弟重綱らが、京都落東にある詩仙堂の石川丈山に揮毫を依頼したものです。

 本堂中央奥には松平信輝が元禄4年(1691)に寄進した釈迦如来坐像をはじめ達磨大師坐像・大権菩薩倚像などが壇上に祀られており、正面の戸帳に描かれた家紋は松平伊豆守信綱の家紋「三蝶の内十六葉菊」で、別名「伊豆蝶」とも呼ばれています。

 本堂に続く左棟に開山堂があり、開山石室善玖禅師ほか、歴代住持の位牌を安置しているところで、御霊屋とも言います。又、古今の名宰相と謳われた松平信綱の位牌や大河内松平一族の位牌をも安置する、誠に厳粛な一隅です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1


平林寺の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1

 下は本堂にのぼる池田です。


平林寺の本堂にのぼる池田
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1

 下は本堂の扁額と内部です。


本堂の扁額と内部
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-5-1

本堂

 佛殿の背後にあり、東向きにして前に門を設く、堂は十間に八間、ここにも平林禅寺としるせし額あり、丈山の筆なり、本尊釈迦如来を安す、相傳ふ昔甲斐守輝綱わかかりしころ、三河国吉田川にて水練のことを学びけるとき、はからずも此釈迦の首を水中に得たりしかば、全體を修造し当寺に納めしなど寺僧はいへり、本尊の左右に達磨及び大権の二像を置けり、堂の西南の隅にあたりて、松平氏代々の位牌堂あり。

出典:新編武蔵風土記稿による平林寺の縁起


◆聯芳軒・経堂・載溪堂・鐘楼

 総門から山門に向かう途中の右側には、天正18年の岩槻落城の時に戦火をのがれたとして知られる聯芳軒があります。

◆経蔵

 山門から仏殿に向かう左側にあるのが経蔵です。


平林寺の経蔵
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1

 二間四方に外縁を廻らした宝形造りで、寛文12年松平久綱室の宋学院によって寄進されました。野火止移転後に造られたものとしては歴史ある建物で、前任である糸原圓應老師の筆による「経蔵」の扁額を掲げています。


載溪堂

 仏殿の右側、経蔵と相対するように建つのが、茅葺き宝形造りの戴渓堂です。明国の僧「独立性易」(どくりゅうしょうえき)の坐像と師の念時仏であった観音像とを安置しています。



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1


戴蹊堂
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-12-15


戴蹊堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1


戴蹊堂に参拝する池田
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1

 下は戴蹊堂の内部を写した写真です。右端が「独立性易」(どくりゅうしょうえき)の坐像、左端が師の念時仏であった観音像です。


戴蹊堂の内部 
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-12-15

 下の写真はその戴蹊堂です。小振りではありますが、和む茅葺屋根の建物といえます。


戴蹊堂 
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-12-15

 独立禅師は黄檗派の人でしたが、当時一流の知識人であり、信綱ら識者の庇護を受けました。堂の正面には黙雲禅師の筆による「戴渓堂」の扁額が掲げられています。


戴蹊堂の黙雲禅師の筆による「戴渓堂」の扁額 
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-12-15

載渓堂

 塔頭聯芳軒の西北二間に二間半、堂は東向なり、正徳年中深見玄岱建つ、入口に載渓堂の額あり、当寺の前住默雲の書なり、左右に聯あり、衣冠去国存君父、日月還天耀古今、源鐵助の書なり、立像一尺の観音を堂内中央に安す、獨立禅師平生信仰せし像なるよし、上に天竺及先生の四字を扁す、獨立禅師の書なり、左右に五夜耀燈三昧火、萬年藤几一夜香、と書したる聯あり、これも獨立禅師の書なり、側に玄岱の位牌あり、明獨立易禅覺位と彫る、観音の右にあり、後ろにこの禅師の像を置く、坐像二尺許、梅花園主の額を扁す、隠元禅師の書なり、又獨立禅師の誌銘を木牌に刻みて側にあり、其文左の如し。(木牌分省略)

出典:新編武蔵風土記稿による平林寺の縁起


載渓堂 後日談>

 池田が年末のお墓参りに菩提寺である豊島区内の竜泉山洞雲寺(黄檗宗)行った折り、住職に平林寺を探訪した話をしたところ、平林寺と黄檗宗のつながりについて、いろいろお話しをしてくださったとのこと。

 平林寺の載溪堂の中にあった座像が「独立性易」(どくりゅうしょうえき)という臨済宗黄檗派の僧で、医術に長けた人だったというのです。そこで調べたら以下の情報がありました。

独立性易(どくりゅうしょうえき)について

 明時代の末期、1596年(万暦24年2月19日)に生まれ、清時代の初めに、日本に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧であるが、医師としても活躍していた。

承応(じょうおう)2年(1653)、57歳の時に長崎に来航し、翌年来日した隠元隆琦(いんげん-りゅうき:日本の黄檗宗の開祖)の弟子となり、師の布教をたすける。

その後、周防(すおう)(山口県)岩国城主吉川(きっかわ)家の家臣池田正直に治痘法(天然痘の治療法)を教えたとされている。1672年(寛文12年11月6日)死去。77歳。俗名は戴笠。別号に曼公。

 医術に長けていたがその他、日本に書法や水墨画、篆刻を伝えた多才な人物といわれている。

 さらに伝記を調べると、以下の様な生い立ちが分かりました。

 父は敬橋、母は陳氏。泰昌元年3月(1620年)に父が没し翌年の大火で家産を焼失したため、医をもって生業にすることを決意し、儒学と医術を学び明朝に仕官した。名流が集う詩社に参加して、詩や書で名が聞こえていた。宦官の魏忠賢による政治の乱れを嫌い、長水(河南省廬氏県か?)語渓に隠れ医術を業とした。

---中略

同年、隠元の普門寺行きに記室として随行。続いて万治元年(1658年)隠元が徳川家綱に謁見するための江戸行きにも随うと、漢詩や書、篆刻、水墨画などが高く賞賛された。噂を聞いた老中松平信綱より平林寺に招かれる栄誉にも浴した。

出典はWikipedia、ことばんく、アート用語解説などより

 ということで、松平信綱公に招かれて平林寺との縁ができたことが分かりました。載溪堂の「載」の字は、独立性易の俗名の「戴笠」から一字をとったものと思われます。堂内には、独立の座像と師の念時仏であった観音像とを安置されている理由が分かりました。

 「独立は儒家としてよりも、仏教者、書家、詩賦家、医者として、日中文化交流の貢献に高く評価すべきであろう。※」という評価があるほどの人物であり、今回の平林寺探訪で巡り会えたのはとても有り難いことでした。

※日中文化交流の伝播と影響 : 徳川初期の独立禅師を中心に (日本文化部会, 第5回国際日本学コンソーシアム : 「日本」とはなにか)
 http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/51850/1/19_167-174.pdf

■独立性易 出典:Wikipedia 他
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%80%A7%E6%98%93
http://artue.jp/words/%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%80%A7%E6%98%93
掛け軸に像があります。


喜多元規筆の独立性易   出典:Wikipedia



◆鐘楼

 戴渓堂の右隣に裳風の石垣を高く組んだ鐘楼があります。銅版葺きの入母屋造りで、古くは松平正綱の寄進による四本柱の鐘楼でしたが、享保7年(1722)に焼失、その後幾度か再建されました。釣下げられている梵鐘は、寛延3年(1750)東巌禅師により鋳造された古鐘です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1


平林寺の鐘楼
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1


平林寺の鐘楼の前の池田
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1

 静寂の中、上位気に響く梵鐘の音は、雲水の叩く板木の連声とともに、永い歴史を刻む平林寺の伽藍に溶け込み、よく似合います。


平林寺の鐘楼
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-5-1

◆鐘楼

 佛殿に向ひ右にあり、近水臺の三字を扁す。鐘の径り二尺九寸、高さ三尺五寸、今の鐘は寛延中鋳たり、其時の銘及び元和・天和等の銘を勒せり、其文左の如し。(鐘銘省略)

 按に右に鋳せる元和九年の銘も、再鋳のものとみえて、下総国大寶寺村大寶寺、守護の八幡に掛し鐘銘に、大日本国武蔵国崎西縣渋江郷金重村、金鳳山□□□寺云々、嘉慶元年丁宇歳、開山石室叟善玖謹書、大檀那藤原中務丞政行、慶雲禅寺比丘至光、小谷野三郎左衛門尉季公、奉行青木左近将監朝貫、染谷山城守修理助義次、逆井尾張守沙弥常宗とあり、是正しく当寺の古鐘にして、戦争の比彼社へ移せしなるべし、是にても当寺創立の始は、殊に堂舎以下荘厳なりしなといへる、寺傳の嘘ならざる事證すべし。

出典:新編武蔵風土記稿による平林寺の縁起


つづく